第四番
 海光山慈照院長谷寺(長谷観音)
 浄土宗 十一面観世音菩薩 鎌倉市長谷
3-11--2

鎌倉駅から久しぶりの江ノ電、小学校の遠足以来かもしれない。あのときも長谷で降りて長谷観音と大仏様を見物して江ノ島に行ったのだと思う。線路脇のトタン屋根を掠めて走っていたことを覚えている。
 長谷観音の門前も見違えるようにきれいに整備されている。
鎌倉を世界遺産にという運動中と聞く。昔の文化遺産がしっかり維持保存されるのはもちろん結構なことで期待したい。

天平8年(736)徳道上人によって開かれたとされているが寺の創建年代や本尊の造立時期は詳しいことは判っていないそうです。
 山門をくぐり池の間の小道を抜けると石段が続く、たくさんの地蔵様に囲まれた地蔵堂、さらに折れ曲がった石段を登ると観音堂のある広場に出る。広場の先は鎌倉の海岸を見渡す見晴台だ。
まずは、観音様にお参りする。
 高さ10mという黄金に輝くこの観音様の前に立つと初めは圧倒される気分であったが次第に幸せな気持ちになる。これが仏のご利益かしら。

ご詠歌

   長谷寺へ まいりて沖を ながむれば
          由比のみぎわに 立つは白波



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境内図
門 前
鎌倉の人気スポットということで平日でも沢山の観光客がお参りしています。山門右手は僧坊で一般参拝客は入れない。右の大木はタブの木(楠木科)で鎌倉のような温暖な海岸に多い。
山 門
山門を入ると池のある庭園
地蔵堂
阿弥陀堂
阿弥陀如来
像高2.8m,鎌倉時代末頃のものか、脇侍は弥勒・勢至菩薩
鐘 楼
鐘は昭和59年新鋳のもの、元の鐘は宝物館にありました。
これは文治元年(1264)の銘が入り鎌倉では3番目の古い鐘だそうです。
阿弥陀堂右手に鐘楼
観音堂前と見晴台
観音堂
関東大震災で破壊されたのち鉄筋コンクリート造りの現在の建物となっている
ご本尊 十一面観音菩薩
木造寄木金箔張りで高さ9.18m黄金燦然と輝く堂々とした観音様だ。木造としては日本最大。右手に錫杖、左手に蓮華をさした花瓶をもつ。造立年代は不明だが室町時代と考えられている。観音像の右壁側には徳道上人の木造坐像が安置されている。

長谷寺のパンフからの抜粋
錫杖を右手に持ち、岩座に立つ独特の姿は、大和長谷寺の本尊をはじめ、他の長谷寺に祀られている観音像に多く見られることから、「長谷寺式十一面観音像」と呼んでいます。縁起には、本尊の造立は養老5年(721)と伝えられていますが、現在の像は創建当初からのものと考えるの難しい、また後世の修復も多く加えられているため、制作年代については未詳と言わざるを得ません。但し、本尊に付随する光背や前立観音の修復年代が室町時代まで遡ることから、現在の像が存在していた時期についても、室町時代に準ずるものであることは確かといえ、さらに鎌倉時代より当山に伝世する大型の懸仏や板碑類の存在から、その当時には巨大な尊像が造立されていたものと推測されます。

奈良の長谷寺の観音像と同じ木から造られたという伝えがあるがそれについてもはっきりしたことは判らないようだ。
十一面観音菩薩

国宝

普通サイズの観音像
壁の雲形は観音堂が関東大震災で崩れたとき本尊の光背が壊れてばらばらになったもの。ご本尊の光背はこれを元に復元したという。
見晴台から由比ガ浜・葉山方向を望む
大黒堂
ここの大黒様(宝物館に展示)は鎌倉では最も古いものだそうです。建物の1F後半分と2Fは宝物館になっている。
経蔵横の庭
経 蔵
輪蔵
回転式の書架。お経が収まっている。これを回転させてお祈りする。一回転で一切経を読破したのと同じ功徳が得られるというが、すこし安易なかんじですね。この輪蔵は幕末に八王子の大善寺から移したものと言われている。 大野万木(伴睦)の句碑
元衆議院議長も務められた方ですが俳人だったそうです
経堂の右にあります
経蔵
経蔵の屋根
観音山の中腹に整備された散策路から見た鎌倉の街 向かいは祗園山ハイキングコースの辺りか
裏山の散策路にある仏様
散策路
整備されて間もないということもあってか眺望がよい。6月になればアジサイがきれいだろう
経堂の上の石仏群
鎌倉も市街化が進んで居場所がなくなった仏様たちがここに集まったのかしら・・
萬霊供養塔
左は導師の名が天照山光明寺50世宏誉上人と読めます。
鐘楼の奥にありました
かきがら稲荷
鐘楼の奥にありました
高山樗牛の記念碑
山門脇に高山樗牛がここに住んでいたとありました
門前で遊んでいたリス、愛らしいですね
急速に増えている今話題の台湾リスかしら
境内には様々な花が
長谷観音の門前の道を左に行くと長谷の大仏様。
長谷の大仏さま
大意山高徳院清浄泉寺  浄土宗
13世紀の中頃に鎌倉幕府が後ろ盾となった浄光という僧が勧進して造立した大仏(阿弥陀如来)を本尊としている。開山、開基とも詳しいことは判らない。源頼朝は建久6年(1195)9月に奈良東大寺で行われた再建供養会に参列し、鎌倉にも大仏を建てたいと願ったが果たせぬうちに没した。頼朝の遺志を受けて幕府の後ろ盾を得て浄光が全国行脚しながら勧進をした。(吾妻鏡暦仁元年3月23日条)
仁治2年(1241)大仏殿の上棟式が行われ高さ八丈の木像仏は翌年の時点で2/3ほど出来上がっていた。(「東関紀行」)
引き続き(木彫の大仏を原型にして)金銅仏の造立が勧められたことは吾妻鏡建長4年(1252)8月17日「金銅八丈の如来像を鋳かけ始めた」という記事で判る。そして大仏鋳造に関わった河内鋳物師丹治久友が製作した梵鐘に記された銘の肩書きから推して金銅製大仏は1261~1264の頃に完成していると思われる。
 その後大仏殿の方は建武2年(1335)台風が吹き倒壊した。そのとき足利直義軍と戦っていた北条時行の軍勢が大風を避けるため大仏殿に避難していたので崩れた建物の下敷きになって多くの被害者が出たという記事が「太平記」巻13にあるそうだ。
その後大仏殿は再建されるが台風や地震の津波によって何度も倒壊し明応7年(1498)の地震で倒壊したのち再建されたという記事は無く、いまでも大仏様は露天に座しておられる。
 大仏はその後も何度かの地震に遭われたが、関東大震災の被害は大きく、その直後に大修理を行っている。そして昭和34年(1959)から2年間の大修理で頚部の補強と免震構造にする大工事が行われている。免震工事によって大きな地震が来ても像は水平にスライドして倒壊を防ぐことが出来るようになった(と説明版に書いてありました)
庚申塔
入り口左隅にある
大仏坂切通しの峠にあったもの
仁王門 仁王像
鎌倉大仏(阿弥陀如来) 国宝
何度かの修理が行われているがほぼ鎌倉時代造立当初の姿を残している。
やはり美男ですね でも少し猫背?
蓮弁
大仏の腰の後ろに3枚置かれている
1736に大仏修復のため鋳造したが完成しないままになった
(左)頭部を別にして下から頚まで7段に区切って鋳継いでいる様子がわかる(右)昭和修理でプラスチックを使って補強している
与謝野晶子歌碑(左)
大仏の裏手に建つ、 

かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 
        美男におはす 夏木立かな
江ノ電長谷駅のほうにもどる。長谷寺参道前を過ぎてしばらく行くと右手に大きな石碑が立っている。道からでも「四条金吾邸址」と読める。石碑に惹かれて入ってみた。小さなお堂があった。
四条山収玄寺  日蓮宗
開山開基は不詳。日蓮に帰依した四条金吾頼基邸跡にあった収玄庵という庵が前身と伝わる。本堂には日蓮上人の木像と四条金吾夫妻の像が安置されているという。   
四条金吾邸址の文字は日蓮宗の信者である
東郷平八郎(日露戦争での連合艦隊司令官)の揮毫
本 堂
四条金吾は北条氏江間光時の家臣で早くから日蓮に帰依し信者の中心的な人物。
境内はご覧のように花々が咲いてきれいでした。
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