第六番
 飯上山長谷寺(飯山観音)
 高野山真言宗 十一面観世音菩薩 厚木市飯山5605

厚木から県道60号線を西北西飯山白山森林公園を目指してすすむ。小鮎川の処で道は清川方面に右折する。ちょうどそこが飯山観音の入り口になる。小鮎川にかかる朱塗りの欄干の橋を渡ると沢道沿いに桜並木が続く。15分程度で山門前につく。
 桜の季節には観音様の開扉も行われて大変な人出だと聞く。お祭りの5日ほど後に訪れたときは参詣客も少なくゆっくり見ることが出来た。
 山門から続く階段を上ると観音堂のある開けた台地にでる。観音堂までの左右に沢山の石灯籠が並ぶ。お堂の周りを杉の大木が囲みひんやりとした空気に包まれている。台地は格好の展望所で厚木の町の向こうに拓けた相模平野が一望に出来る。少し花曇であったのが残念。
お寺の背後の山は白山(280m)という名で呼ばれている。白山の名前からは山岳仏教が連想される。神奈川県の西部の丹沢や大山そしてそれを取りを巻く周辺の小さな山々には日向の薬師や八菅の八菅神社など修験者たちの道場が今でも散在している。
山門前の公園には桜が沢山植えられていた、未だ若い木なのでこれからが楽しみでしょう。

縁起
奈良時代の神亀二年(725)行基上人の開基で、さらに大同二年(807)弘法大師が密宗の道場としたと伝えられている。鎌倉時代には四宗兼学の寺として栄え、鎌倉の覚遠寺、金沢文庫の称名寺と交流があった。弘仁二年(811)この寺の長老であった覚阿は、覚園寺開山の心彗や称名寺開山の審海と共に、相模国大山寺中興の願行の附法の弟子であったのである。(坂東札所霊場会・朱鷺書房「坂東三十三所観音巡礼・法話と札所案内」より)
【ご詠歌】
  飯山寺 建ちそめしより つきせぬは
         いりあいひびく 松風の音

地図をクリックすると詳細地図が表示されます
仁王門前
この仁王門は建久年間(1190~99)頼朝の命により建てたといわれます。
仁王様 愛嬌のある表情をしていますね。
六地蔵
正徳元年(1710)建立
観音堂前の急な階段、右の大きな木は樹齢400年のイヌ槙,神奈川名木100選に選ばれている。
(樹高17m、胸高周囲2.8m)
観音堂
両側に石灯籠が整然と並んで特長のある境内、写真で見るより大きなお堂でした。
鐘 楼
 室町時代の嘉吉2年(1442)に鋳工清原国光が鋳造したことが、鐘に刻まれた銘文にある。国光は飯山の鋳物師とみられる。
 この銅鐘の銘文には、嘉吉2年の春、飯山新長谷寺が火災で焼失したので、金剛寺の前の住職の誾勝が中心となって、多くの信者から寄付を集め、銅鐘を造ったと記されている。
 火災後、すぐに観音堂を再建し、この銅鐘を鋳造できたということから、当時の飯山観音が大きな力を持っていたことをうかがわせる。
境内には沢山の歌碑
イヌ槙の根元に 慰霊塔
観音堂前広場の左手にある
観音堂の周囲を三十三札所の碑があってここを一巡りするとすべてお参りした事になるの??
真っ直ぐ山のほうに登ると白山への登山道。修験者の息遣いが聞こえるようだ。
桜の花が少し残っていました
 
登山(どうやま)古墳(厚木市飯山) 厚木市教育委員会資料よりMAP
飯山観音に向かう県道60号線の途中に多量な埴輪が出たことで知られている飯山登山古墳がある。以下厚木市教育委員会の資料から引用しました。

6世紀頃に造られたとみられる、飯山の登山古墳は直径約20mほどの円墳ですが、市内で唯一多量の埴輪が出土した古墳です。家形埴輪、坊主頭の力士像(右の写真)とみられる埴輪は全国的にも珍しいものです。この埴輪には衣服がみられないことや、褌と思われる表現から力士像と考えられています。全国的にも出土例は少なく坊主頭のものは本例だけです。また足の甲の突起も特徴的ですが、何の表現かは明確ではありません。
森庄と毛利氏
平安時代の末期、神奈川県厚木市から愛甲郡一帯は「森庄」と呼ばれていた。
鎌倉時代に入ると京都の公家大江広元が源頼朝に招かれ、政所の別当として鎌倉幕府の創設に大きな役割を果たした。
広元の最も大きな功績は鎌倉幕府が全国を統治する守護地頭のシステムの確立である。この功績により、広元は頼朝から森庄を賜った。そして四男季光(すえみつ)にこの地を譲り、季光が毛利(もり)氏を名乗ったことから「毛利(もり)庄」に改められた。

 また越後国佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう:新潟県柏崎市)と安芸国吉田庄(広島県安芸高田市)も与えられ、四男経光を地頭代として佐橋庄に送り統治させた。

 季光は宝治合戦で三浦泰村に味方し、北条氏に一族は滅ぼされることとなる。遠国にいたため、運よく乱に巻き込まれなかった経光は、佐橋庄と吉田庄を安堵され、越後毛利として越後の地に定着した。
経光は長男基親に佐橋庄北条(きたじょう)を、二男時親に南条と安芸吉田庄を相続させ、時親が安芸毛利家の始祖となった。
森庄(毛利庄)飯山の鋳物師(いもじ)

鎌倉時代には鎌倉を中心に多くの寺院の建立や修復が行われて、それに併せて多くの梵鐘の鋳造が行われた。鋳造を担った鋳物師は現在の厚木市飯山を拠点とした物部氏、飯山森氏が知られている。
 
 物部姓鋳物師の代表的な梵鐘としては国宝になっているもので1255年北条時頼が施主で鋳工物部重光のものと、1300年北条貞時が施主となり鋳工が(大工大和権守)物部国光のものがある。
 物部国光は一族を率いて安房の小網寺・相模国分寺・武蔵東漸寺(横浜市磯子区)・金沢文庫の称名寺などの梵鐘を造っている。(中丸和伯氏「神奈川県の歴史」より)

 又他にも横浜市瀬谷区の妙光寺の鐘(恩田万年寺旧鐘)は正中2年(1325)に大工物部守光によって鋳造されている。

 飯山観音の梵鐘を造った清原国光は年代が離れているので物部国光の流れを汲むものであろう。

つまり鎌倉時代に関東の地で梵鐘の鋳造を担ったのは、いずれも物部姓の鋳物師(いもじ)集団であったということです。では、この鋳物師集団とはどのような人々だったのでしょうか。

 横浜市歴史博物館資料には次のように有ります
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物部姓鋳物師は、河内国丹南郡、現在の大阪府南河内郡美原町辺りを中心とする地域を本拠とした集団であったといわれています。彼らは鎌倉時代の建長4年(1252)に、現在鎌倉大仏として有名な高徳院の銅造阿弥陀如来坐像の鋳造のため、執権北条氏により招かれやってきます。
 この時に、丹治(たじ)・広階(ひろしな)・大中臣(おおなかとみ)という、当時河内国に本拠地を置いた鋳物師も招かれています。彼らこそ朝廷の用に奉仕するかわりに、税の免除や全国往来の自由など、いくつもの特権を認められた有力な鋳物師集団だったのです。
 
 大仏の鋳造が終わると、丹治姓鋳物師は河内国に帰りますが、広階・大中臣姓鋳物師は上総団(千葉県)方面に移住して活動を続けます。
 これに対して、物部姓鋳物師は相模国北西部の毛利荘内(厚木市付近)に移住・定着したと考えられ、需要の増大した鎌倉を中心に相模・武蔵国の寺院の梵鐘を鋳造していきます。

 物部姓鋳物師は、寛元(かんげん)3年(1245)に物部重光(しげみつ)が武蔵国慈光寺(埼玉県比企郡都幾川村【坂東三十三霊場の第九番】)の梵鐘鋳造を手がけて以来、季重(すえしげ)・国光・依光・守光・道光・信光らを輩出し、南北朝時代の延文元(1356)年に相模国清浄光寺(しょうじょうこうじ)(藤沢市)の鐘を鋳造した肺享を最後に名前が見えなくなります。

 この110年余の間、彼らの鋳造した梵鐘は現存しないものも含むと20を数えます。中でも、国光は特に有名で、文永の炎上以来修復されることがなかった京都の東寺の五重塔の相輪を、物部姓鋳物師集団を率いて鋳造完成させています。

 こののち、国光は千葉県館山市にある小網寺、神奈川県海老名市にある国分寺、横浜市の東漸寺、横浜市の榛名寺の鐘、鎌倉市にある円覚寺の鐘を次々に鋳造していきます。

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ということで、ここ、飯山は河内を本拠にした渡来系有力氏族の血をひく、金属加工技術者集団の関東の拠点の一つだったのです。この地には河内から来た技術者を受け入れて共に鋳物師としての仕事に必要な金属加工に関する経験と技術力があったと考えるべきでしょう。
 江戸神田の鋳工が書留めたという元禄年間の文書によると一個の銅鐘を製作するのに
  
 延人員304人、地金200貫、総工費20両、鐘の大きさ、径2尺2寸、総高4尺5寸、目方150貫
ということです。多くの職人が必要だったことが窺えます。
 
 中世から近代初期にかけて、愛甲郡の飯山及びその北隣の荻野の地に鋳物師たちの技術が伝承されていきます。
これについては、『神奈川県姓氏家系大辞典』から引用させていただいて記述しています。

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 飯山の冶匠(鋳物師、鋳工、大工)としては嘉禄3年(1227)に座間市の星谷寺(【坂東三十三霊場の第八番】)の鐘を鋳造した大工源吉国、弘長3年(1263)に河崎荘勝福寺の鐘を鋳造した鋳物師源有貞らが知られます。

 室町期に入っても、森荘の鋳物師常盛は明徳3年(1392)伊豆の走湯権現の神像や走湯山東明寺の鐘の製作に当たりました。永享7年(1435)には飯山の鋳工森左衛門次郎国吉が上総国菅生の鋳物師藤原光吉を助けて鎌倉府政所の建造に従事したことが知られており(房総古文書)、嘉吉2年(1442)には誾勝によって飯山観音堂(【坂東三十三霊場第六番】)が造られたといわれます。

 戦国期に入ると、鋳工の活動地(=居住地か)は飯山から荻野へと次第に移動しており、天正17年(1589)、小田原北条氏が大筒の製作を命じた朱印状写には、飯山の鋳工が山城一人であったに対し、荻野では森豊後・木村内匠・田村大炊助の三人の鋳物師が記載されています。
 毛利荘の鋳物師については、戦国期に小田原北條氏の関東支配が進むにつれ、鋳物の主たる生産地は飯山から北條氏の城下小田原に移ったともされます。

 近世の荻野の鋳物師としては、森・木村・野口・加藤の諸氏があり梵鐘鋳造に関わりますが、なかでも木村氏一族は重次・吉久など「重・吉」の字を含む名前を持ち、戦国期から明治初期に至る期間、神奈川中央部から県北、三浦半島にかけての広範囲で100口以上に及ぶ寺社の梵鐘を作成したことが知られています。
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飯山観音を後にしてここより少し西にある日向薬師に向かう。山一つ西側だが大きく南に迂回していくことになる。日向山宝城坊の薬師如来像には昨年の秋の仏像展でお会いしている。
宝城坊 日向薬師          神奈川県伊勢原市日向1644   MAP
日本三薬師の一つとして知られる日向薬師は日向山霊山寺の別当坊のにあたる宝城坊です。大山の東山麓の傾斜地にかっては13坊を数える大寺院でした。ここもご他聞にもれず明治維新のときの神仏分離、廃仏毀釈によって唯一つこの宝城坊だけを残して破壊されています。
維新の名を借りてこれほどの暴挙が行われたという事実を我々もとうに忘れてしまったようです。
寺の縁起では716年奈良時代に行基上人によって開かれたとされていますが詳しいことはわからないようです。残っている梵鐘の銘文では平安時代前期(1340年)鋳造となっているのでそれ以前には寺があったことだけは確実です。
 鎌倉時代の史書『吾妻鏡』にも日向薬師に北条政子の安産祈祷のために頼朝が読経をさせた寺院の1つとして霊山寺の名がある。また、建久5年(1194年)8月8日条には、源頼朝が娘の大姫の病平癒祈願のため自ら「日向山」へ参詣したとある。この頃には日向薬師が霊場として栄えていた現われと考えられます。
 ここには多くの文化財が残されており観音堂左手にある宝物館に所蔵されています。薬師三尊も宝物館にあって特定の期間にのみ公開されているので訪れたときには拝観することは出来ませんでした。
 本尊の薬師如来は関東に多い鉈彫りの素朴な感じの木彫の仏様です。横浜の弘明寺の観音様もそうですね。2006年秋に上野で行われた仏像展に出ていましたので間近で拝んできました。
観音堂
観音堂
薬師三尊 国指定重要文化財 鉈彫りの木像
平安時代(10世紀)の作と見られる。カツラの一木から彫りだし、彩色をしない白木のままだが、目、眉、髭、胸飾りは墨で書いている。本尊の開扉は正月3日間、1月8日、4月15日だけです。数日後がちょうど開扉日で大法会が行われる日だったので残念でした。
左脇侍菩薩
像高123.3cm
薬師如来
 像高116.6cm 顔と胸、上腕部は仕上げているが他は鉈目をそのまま残し、
素朴な感じを出している。
右脇侍菩薩
像高123.9cm
【鉈彫り】
平安時代の10世紀頃から鎌倉時代の前半にかけて出てきた木彫。表面にノミの目を入れた素朴な表現が特徴で関東地方と岩手など東日本だけに見られる。一見すると未完成なように見えるが弘明寺の十一面観音像の例でもわかるように全体をきれいに仕上げた後に、ノミ目を入れていることから一つの表現形式と考えられる。

手水舎
鐘楼
天暦6年(952年)村上天皇から下賜された梵鐘を仁平3年(1153年)に改鋳、さらに暦応3年(1340年)に改鋳したのが
今ある鐘だという。観音堂の階には新鋳の梵鐘が選手交代を待って待機中でした。
幡賭け杉
樹齢800年、県指定天然記念物。鐘楼の右手にあって堂々とした幹が真っ直ぐ伸びている。
虚空像菩薩
奥の院に有った仏様を観音堂右手の古樹のうろに移したとあります
白鬚神社
日向薬師の山門近くには白鬚神社がある。この名前は浅草寺の近くにもあるので時々耳にすることがある。大磯高麗山にある高来(高麗)神社や埼玉県日高市の高麗神社と同じ高麗王(こしき)若光(じゃくこう)に縁がある。高麗神社から分かれた白鬚神社、大宮神社、広瀬神社などの神社が東京都下、埼玉県だけでも130以上あるという。
唐と新羅の連合によって667年に高句麗が滅んで多くの高句麗人が日本に亡命してくる。若光に率いられた集団は大和朝廷の指示によって相模の大磯に上陸しここを拠点とした。花見川や相模川の下流域(「高座郡(たかくらこおり」)にはこれより以前から高句麗からの渡来人によって開発が行われていたと思われる。
そして大宝三年(703)には従五位下高麗若光に王(こしき)の姓(かばね)が賜られる。
又、それから13年ののち霊亀2年(716)に大和朝廷の命によって武蔵国に高麗郡をおき駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国より高麗人1799人を移して西武蔵の開発を行わせている。
高麗王若光が高麗郡の大領となった。高麗郡は明治29年に合併して入間郡となっている。
今でも高麗王若光の子孫の高麗氏が宮司となっている高麗神社が埼玉県日高市にある。
 ちなみに、箱根神社の奥の宮である駒ケ岳山頂の駒ケ岳神社は大磯高麗神社から分祀されたものといわれている。日向の白鬚神社が大磯の高麗神社と直接的な繋がりの有無はわからないが新羅系といわれる近江の白鬚神社の繋がりだとしてもこの地は古い時代から渡来人が定着していたことを表している。
飯山観音の後ろにある、おそらくは白山権現が祀られていただろう白山と名づけられた山も古代における渡来人文化の名残を感じさせる。飯山の鋳物師の元となる技術も渡来人と無縁とは思えない。
 余談だが日向(ひなた)の地名の由来はなんだろうか??まさか、天孫族の神話に出てくる日向(ひむか)からきているということは???
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