ピラミッドの後背台地からの展望
三大ピラミッド
予定時刻を1時間余り遅れてギザ駅に到着。ここはカイロの一つ手前で大ピラミッドの最寄り駅。高架道路を経由してピラミッドに向かう。高架道路からビルの合間にピラミッドが見えてくる。市街地に隣接して見えるピラミッドのイメージは随分と違和感を感じるがこれは現実だ。そういえば。「大スフインクスの視線の先には何があるの?」というクイズの答はケンタッキーフライドチキンの「カーネル・サンダース」あの髭オジサンの人形だった。
 入場口に到着するとすでに行列ができていた。クフ王のピラミッドの入場者は午前午後それぞれ150人に人数制限されている。それでガイドさんたちも少し焦っていたようだが何とか無事キップは買えた。入場者自身が一人一人並ばないと買えない決まりでトイレを我慢してみな神妙に並んでいた。ご苦労様。
ギザの市街地に顔を出す大ピラミッド
ナイル川は毎年増水し氾濫を繰り返す。その増水時の水際となるギザ台地の東端の堅固な岩盤の上にピラミッドは立っている。
クフ王の大ピラミッド
門をはいると目の前にこのクフ王のピラミッドがそびえていた。それでもピラミッドの下まではかなりの距離がある。広角レンズで撮ったこの写真はこんな扁平な姿で映っているが何しろ高い。かなり離れていても見上げる高さだ。
BC2550年頃、古代エジプト第4王朝のファラオ、クフ王の時代に25年ほどで建設されたと考えられている。本来の高さは146m、現在は頭頂部が失われてしまったため139m。一辺の長さは230m。頭頂部にはキャップストーンの代わりに鉄骨の骨組みが載っている。
底辺:230.37m、勾配:51度50分40、容積:約235.2万m³で、平均2.5tの石材を約230万個積み上げたと計算される。14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。こうした規模とともに石積技術も最高水準にある。例えば、底辺の長さの誤差は20cm、方位の誤差は1分57秒-5分30秒という正確さである。(wikipedia)
クフ王のピラミッド入場
ピラミッドのふもとでガイドさんにカメラを預けていよいよピラミッドの内部に入る。入口は盗掘の目的で開けた穴②。少し上にあるのは建造中の入口①だがこちらから入る方法はない。通路の途中で巨岩に塞がれている。盗掘の穴はほぼ水平に奥に伸びているが先の方は腰をかがめないと進めない。かなり苦しい姿勢で早く楽にならないかと念じる。しばらくすると交差点③のような場所に出た盗掘路が奇跡的に本来の通路を遮断していた仕切り石の奥に貫通した個所である。ここで下降通路④と上昇通路に分かれている。この個所は「王の間」から下ってくる人と登る人が交錯するので混雑している。通路⑥は梯子を登るような急角度で上昇通路が続く。しかしこのほうが腰を伸ばして登れるので体は楽である。
クフ王のピラミッド断面図  (ウィキペディアより)
1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔
見学が始まってまだ間もないはずなのに上りの列と下りの列が通路でひしめき合う状態になっている。下りを先に通さなければ中にはゆけないので体を反対側の手すりに押しつけるように寄せて下りの人々をやり過ごす。交互通行のような感じで譲り合う。幸いなことに下りの人も小柄な日本人が多い。降りてくる人たちはみな口々に暑いけど頑張ってと声をかけてくる。みな汗だくでタオルを使っている。
 こちらも暑くてたまらんと思っていると突然天井の高い大きな通路に出た。「大回廊」⑨の斜路だ。空間が広いとやはりほっとする。混雑回避のためか短い区間上下別々の通路が作られていた。左右の壁は上に行くにつれて張り出しが出てきて天井の方が幅が狭くなる「張り出し構造」をしている。上からの巨大な圧力に耐えるための構造だという。足元の両側には重量物でこすれたような傷がある。そしてところどころに段差が造られ滑り止めの桟がはいっていたような構造が見られる。
 そろそろ「王の間」に着いてもいいのにと思っていると突然照明が消えた。真っ暗である。こんな時のためにペンライトを持ってきたはずだがと荷物を探ったが見つからず、そのうち何箇所かでペンライトがつけられ辺りは明るくなった。女性たちの悲鳴も一瞬で収まって皆落ち着きを取り戻す。実際のところ照明が戻るまで2~3分くらいのことだったと思うがその時は随分長い時間に感じた。ピラミッドの内部には警備員など全くいないのでパニックになると大変そう。エジプトに限らず日本以外では停電は良くあることなのであらかじめ想定しておく必要がある。まあ、ちょっとしたハプニングだった。
 やっと上部にたどり着いて狭い戸口をくぐるように入ると「王の間」の大きな空間に出た。小さな石棺の様なものがぽつんと置かれているだけであとは何もない。ピラミッドの内部見学というのはこんなものなのだろう。一度経験すればいいかなというのが率直な感想だった。
ピラミッドの内部
上昇通路上部(上から)
大回廊最下部 天井の高さ:8.74m
大回廊上部
王の間の石棺??
クフ王の小さな彫像
カイロ考古学博物館、象牙製、アビドス出土、H7.5cm 2589BC~2566BC
カイロ博物館で見たがほんとに小さな彫像。1903年頭部のない状態で発見されたがヒエログラフによりクフ王であることが判って残りの頭部を賞金付きで探させたといういわくがある。現在あるクフ王の遺品として唯一のもの。あまりに小さく造りが貧弱なことから、末期王朝第26王朝(BC600)のころクフ王が神格化された時に造られた護符のようなものではないかという見解がある。
右手にカフラー王のピラミッドが見える
写真中央は建造時本来の入り口
墓盗人はだれか?
現在観光で入場する入り口は盗掘のために開けた通路を通って上昇通路に抜けている。盗掘路が上昇通路と接した個所は見事に花崗岩の栓石ブロックのすぐ上である。試行錯誤はあったとしても盗掘者が正確な内部構造の知識を持っていなければ不可能な芸当である。実際にこの通路を通るとその見事に感じ入るばかりであった。9世紀にアル・マアムーン(アッバース朝第7代カリフ)が挑戦した以前からこの通路はすでに知られていたものであったようだ。
ピラミッド大百科 東洋書林 より
斜め下の人が出入りしている箇所が現在の出入り口で、盗掘のために開けられたもの。
一つの石のブロックはほぼ1m四方で平均して2.5tこれが230万個使われているという。重機もない時代に途方もないことを成し遂げたものだ。奈良の大仏も何度かの失敗の後、行基上人がプロジェクトリーダになって民衆の積極的な協力参加が得られるようになって出来上がったという話が思い出される。4500年の時を経てもどっしりとこの地に存在しているという事実を見れば驚異的な精度の建築技術と大工事を成し遂げる強い熱意が伝わる。奴隷を強制的に働かせて出来るような生易しいものではない。みずから進んでこの建設プロジェクトに参加し、喜びを感じながら働いた労働者や技術者の力の結実だったとの思いが強くなった。
クフ王のピラミッドの東側最下段に残された石灰岩製の化粧石。この真っ白な石でピラミッド全体が陽の光を受けて光り輝いていたのだ。白石灰岩はナイル東岸にある石切り場(モカッタム、マーサラ、トウーラ)から平底の船を使ってここまで運ばれた。しかし後世の支配者たちの手でこの化粧岩ははぎとられて他の建造物に転用されたという。
建造方法の新説
フランスの建築家ジャン・ピエール・ウーダン氏が最近発表した説は日本でも詳しく紹介されたが私自身の目では最も納得しやすい方法と感じている。
ピラミッドのふちの内部にらせん状に造られた工事用の傾斜路
ジャン・ピエール・ウーダン氏が注目したピラミッドの角にある切れ込み(左下)
ウーダン氏の説によるとピラミッドの角の切れ込みは方向転換の作業場所であった。下はウーダン氏らのプロジェクトにより作成された作業想像図。これらピラミッドの建設作業の様子はコンピュータによる3Dアニメーションで見ることができる。
バスから見るカフラー王のピラミッド
ピラミッドの壁面が白くなっているのはバスの車窓の映り込みによるもの
三大ピラミッドのそろい踏み
バスでピラミッド後方の砂漠に移動。小高い場所からは三つのピラミッドを見渡せる。
三点セットの大ピラミッド
三つのピラミッドは正確に東西南北を向いているそしてそれぞれの東南の角を結ぶと一直線にそろっている。”クフ””カフラー”の二つは先に建造された。三つ目の”メンカウラー”が計画の2分の1に変更されなければ恐らくピラミッドの中心も一直線に並んだことだろう。クフのピラミッドは計測によると真北に対してわずかに3分6秒の角度誤差であるという。
 下の図にあるモカッタム累層とはこの台地の主要な地層で石灰岩の硬さの異なるプレートが重層している安定した地盤。
カフラー王のピラミッド
BC2550年頃、クフ王の3番目の子カフラー王のピラミッドとされているが確かな証拠はない。参道の端にある河岸神殿の入口からカフラー王の座像が見つかったことが根拠の一つになってる。しかしながら三つのピラミッドが一直線上に並んでいることから考えればこれらのピラミッドは三つセットとして計画され設計されていると考えるのが妥当である。
一辺の長さ:215m、高さ:143m、頭頂部に白い石灰岩製の化粧岩が残っている。立っている土台も少し高いので左にあるクフ王のピラミッドより高く見える。
カフラー王はクフ王の息子。長兄がなくなり2番目の兄で先代王ジェドエフラーが王位をついで3~4年で不自然な死を遂げた。陰謀の可能性大だ。王位継承の暗闘の結果ではないだろうか。日本や中国の王朝史、近くは韓国の王朝ドラマでよく見るあれ。力のある弟が軟弱な兄を押しのけて何とか王位につこうとする王朝ドラマそのもののようだ。
しかし、カフラー王は在位25,6年の長い治世の間、エジプトを良く治めた力強い王だった。その上出来のいい息子たちにも恵まれ、二人の息子はそれぞれ地方の統治をしっかり行ったという。
 吉村教授はまた、重要な意見を述べている。いわく、ギザにある3つのピラミッドはクフ王の時代にヘムオンという人が一つの計画のもとに造ったもので、父王が死んで王位に着いたカフラー王が自分のものとしたと考えられる。ちなみにヘムオンの父親はスネフェル王でクフ王の異母弟とみなされている。
入口は北側にあり地下への口が開いているようだ。
メンカウラー王のピラミッド
メンカウラーはカフラー王の子、エジプト学者からは名君の評価が高い。
他の二つのピラミッドに比べて親と子というほど小さい。
高さ65.5m、
底辺で1/2、高さで半分以下、容積比率では1/8の大きさ。
恐らくこの頃には王家の経済力が衰えて他の二つほど大きなものは作れなくなったのだろう。完成はメンカウラー王の次の次の王の時代である。
メンカウラーの3柱神(右)
H.95cm、第4王朝、BC2500頃
同じ形の像が3体メンカウラー王の河岸神殿とされている場所から発見された。河岸神殿にはこの像が8体置けるように造られているので元々は8体あったものと思われる。
メンカウラー王のピラミッド
中央の窪みはAD1196オスマンによって破壊されてできたもの。底部に近い個所には花崗岩による外装部分が残っている。
メンカウラー王の王妃のピラミッド
かすかにカイロ市街の高層ビルが見える
写真の白くまだらな部分はバスの窓ガラスの映り込みです。
駱駝で散歩
我らのガイド氏による駱駝の乗り方のレクチャー
なかなかみなさん様になっております。
大スフインクスと河岸神殿
大スフインクスはカフラー王のピラミッドの東に少し下った場所にある。長い間肩まで砂に埋まっていたことが知られ、1887年に撮影された写真でもそれを確認することができる。かってはカフラー王のピラミッドとセットで造られたものと考えられていたがどうやらスフインクスはもっとはるかに古い時代に建造されたようだ。この点については多くのエジプト学者は決して認めようとしていないが・・・・
バスで台地の下に移動、駐車場でバスを降りて河岸神殿を見学した後、スフインクスの間近までゆく。
このホームページの管理人 痛いほど暑かった
カフラー王の河岸神殿
大スフインクスの前にはスフインクス神殿があるが隣接して左手にカフラー王の河岸神殿がある。ピラミッドコンプレックスの建設中は恐らく運河の船着き場として使われ完成後に河岸神殿としての機能が与えられたのではないかと考えられている。手前東側の船着き場から入口に進み神殿を抜けると参道に出る、長い参道は真西ではなく少し北にぶれる方向にまっすぐカフラー王のピラミッドに向かう。ピラミッドの正面には葬祭殿がある。ピラミッドコンプレックスのすべての要素が残されている。
右手前はスフインクス神殿跡、左手奥がカフラー王の河岸神殿
河岸神殿の中は天井がなくなっているので明るい。
右のカフラー王の椅座像は河岸神殿の入口の間で発見されたが元々はこの広間に23体安置されていたという説が唱えられている。 
カフラー王
閃緑岩、ギザ出土、H.168cm
椅座像の材料となる石は閃緑岩といって、エジプト国内では手に入れることのできない極めて硬い石で息子たちが外国から手に入れるのに力を尽くしたらしい。(吉村作治教授)
参道に
間近で見る大スフインクス
河岸神殿の斜路を登り外に出るとそこは参道の端、そして右側には巨大なスフインクスが間近に見える。遠くからピラミッドをバックに見るときとは全く大きさが違う巨大である。
顔は異教徒の手で破壊されたのだろうか?痛々しいがそれでも凛としているように感じるが・・・
体の部分の激しい浸食を見ると随分古い時代のもののようだ。この地域でこれほどの激しく雨によって浸食されるのはある一つの時代に限定されるという。それは今考えられているより倍も古い時代???(アメリカの新進の地質学者であるロバート・ショック博士の説)
スフインクの両足の間にある石碑 これはレプリカらしいが
河岸神殿の斜路を上るとこの参道に出る。参道はカフラー王のピラミッドに向かっているが現在はフェンスで遮られここでUターン。
河岸神殿前の清めの池かまたは船着き場跡か??
クフ王のピラミッド遠望
ここまで離れると本来の正四角錐の美しい姿が見える。左下の白い屋根の建物は「クフ王の船」の博物館。この船の発見には早稲田大学による貢献が大きかった。
復元された「王の船」
©2000-2010 Osiris Express
大昔のスフインクスは?
1801年に描かれた大スフインクス像  首まで砂に埋まっていた。
http://pymd.com/Great-Sphinx.htm
1887年に撮影された大スフインクスの写真
by Henri Bechard, 1887
ギザ市内メインストリート
カイロの中心部につながるメインストリート。最近急速に発展して人口も200万人を超える大都市である。急速な人口増による弊害は古くからある運河の汚染という形でも現れていた。一部はすでに暗渠化してその上を公園などの公共施設に転用しているが昔のままの運河の場所には不法投棄によって大小さまざまなゴミが堆積し運河の機能もマヒしている状況である。訪れた時大がかりな浚渫(川底をさらう)作業が行われていたが、作業の直後であったらしくさらったゴミやヘドロが運河沿いの道路に山積みになっていて異臭を放っていた。カイロ市内のごみ問題はもっとひどくいわゆる下町の街路には勝手に捨てられたゴミの山がかたずける後から出来てしまい掃除ボランティアと不法投棄のいたちごっこになっているそうだ。
昼食はピラミッドに近いイタリアン風のおしゃれなレストランでとる。エジプトの窯焼きパン「エイシ」がおいしかった。現在我々が食べているいわゆるパンと同じ系統の”発酵パン”でパンの元祖だ。レストランの入り口に大きな石がま2基が据えられ、おばさん二人が額の汗をぬぐいながら焼いていた。http://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/200911210000/こちらのブログには窯の写真なども載っていました。参考情報。
午後はギザのものよりもっと古い時代のピラミッド見物に行く。ナイルに並行して真南にまっすぐ伸びている運河に沿って多くのピラミッドが並ぶので別名ピラミッド街道とも呼ばれる。
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