今年も昨年に続いて博多祗園山笠を見に福岡に行くことになった。いつものように高速を使って車でのロングドライブ。山陽道が出来てからは高低差がほとんど無い上緩やかなカーブが連続して疲れにくく大変走りやすい。九州へのドライブの途中宮島に泊まって念願の厳島神社にお参りする。早朝に横浜を出発し宮島口に到着したときはもう夕刻だったが、夏の太陽はまだ高い。連絡船から大鳥居を眺めることが出来そうだ。桟橋の正面に大野瀬戸をはさんで宮島と大鳥居を遠望できる。3kmほどの瀬戸を10分ほどで渡る。途中、乗客のために厳島神社の正面に船を迂回してくれる。船上からならではの景観をしばし楽しむ。 (2007.7) |
日本三景のひとつ 安芸の宮島 |
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宮島遠望 |
対岸のフェリー乗り場「宮島口」から見る宮島。中央奥の山が神奈備『弥山(みねさん)』(海抜530m)、左下海岸の赤い鳥居が『厳島神社』今でも、島全体が聖地で、島内には墓地は作れない。 |
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宮島口 |
JRの宮島行きフェリーの乗り場、1Hに4本の便がある、他に民営フェリーもあるので通勤電車並みの便利さである。【JR宮島連絡船の時刻表】 |
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連絡船 |
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厳島神社 安芸の一宮 世界文化遺産 |
厳島神社社殿全景 (連絡船からの遠望) |
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1400年の歴史をもつ古い神社である。古代から宮島そのものが神の依代として信仰の対象となり大切にされてきた。 厳島の名は【伊都伎嶋】=斎き嶋(いちきしま)からきている。
主祭神は宗像三女神(市杵島姫命(いちきしまひめみこ)、田心姫命、湍津姫命)で宗像大社や宇佐神宮、箱崎八幡宮などと同じ海上鎮護の神様である。宮島は瀬戸内海の要衝として軍事的にも極めて重要な場所であった。そして難波から瀬戸内海を通り北九州を経由して朝鮮半島への海上ルートは古くから中国や朝鮮半島との交易の重要な道でも有った。
社伝では推古天皇元年(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。
平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年(1168年)ごろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。
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入り江に浮かぶように建つ寝殿造りの社殿は厳島神社独特のものです。神社を囲むように入り江の周りにある五重塔、千畳閣(豊国神社)、多宝塔、大聖院、大願寺などが厳島伽藍を構成している。そして弥山の頂上にある奥の院にはロープウェイを使って登ることが出来る。全島が聖地ということで自然が手付かずに残っている。 |
厳島神社周辺案内図 |
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厳島神社の全景 |
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石の鳥居がある海岸沿いの参道は江戸時代に埋め立てられてできた。 |
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大鳥居 |
宮島(厳島神社)のシンボルともいえる大鳥居。本殿前200mほどの海上にある。高さは奈良の大仏とほぼ同じ高さの16.8m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したといいます。また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木(鳥居最上部の横木の部分)の中に石を詰めて加重するなどによって鳥居の重みだけで立っている。 |
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大鳥居と寝殿造りの本殿
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屋根には千木や鰹木がない、桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟の様式を取り入れた寝殿造りが特徴。(連絡船から撮影) |
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参拝入口 |
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本社 拝殿.本殿(奥) (国宝、平安時代) |
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客(まろうど)社祓殿 |
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本社祓殿から見る高舞台と大鳥居 |
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高舞台(手前)と本社祓殿 |
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祓殿の奥に拝殿 |
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本社西回廊
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西回廊 本社祓殿の西側より |
長橋 |
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回廊 |
廻廊は幅4m、総延長約275m。床板の間に目透しという隙間があり、高潮の時に下から押しあがってくる海水の圧力を弱め、海水や雨水を海へ流す役目を果たしている。 |
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参拝者出口 |
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夜景の厳島神社 |
夕暮れと共に大鳥居や社殿がライトアップされ、参道の石灯籠に火がともされると、昼の風景とは別世界のようだ。岸辺によせる波の音を聞きながら瀬戸を行き交う船の灯と対岸の明かりを眺めていると時がたつのも忘れてしまう。 |
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社殿遠景 |
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本社 社殿遠景 |
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こんなシーンが
社殿の前の海を横切って渡る先は、いつもの?写真屋さんのおじさんの姿があった. |
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千畳閣と五重塔 (重要文化財) |
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千畳閣(豊国神社) |
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が戦で亡くなった者への供養として毎月一度千部経を読誦するため政僧・安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂です。 |
島内では最も大きな建物で、畳857枚分の広さがあることから千畳閣と呼ばれてきました。秀吉の急死によって工事が中止されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままの状態で現在に至っています。江戸時代、既にここは交流の場・納涼の場として人々に親しまれていたようで、大きな柱には当時の歌舞伎役者一行の名や川柳などが記されています。明治の神仏分離令により仏像は大願寺に遷され、秀吉公を祀る豊国神社となりました。 |
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厳島神社入り口前の階段を上り詰めると丘の上にこの堂々たる建物が文字通り聳えている。建物の周囲を巡る回廊。大屋根を支える大きな太い角柱どれをとってもスケールが大きい。この力強さに圧倒される思い。早朝のために内部を見ることが出来ず残念。 |
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亀居山方光院 大願寺 日本三弁財天の一つ |
厳島神社の出口を出ると目の前に大願寺の形の良い仁王門がある。
開基は不明だが、建仁年間(1201年~1203年)の僧了海が再興したと伝えられる真言宗の古刹。明治の神仏分離令までは厳島神社の普請奉行として寺院の修理・造営を一手に担い、千畳閣、五重塔、多宝塔などから形成される厳島伽藍の中心をなしていた。又、室町時代末には鍛冶、番匠(大工)などの職人を率いて箱崎八幡宮や宇佐八幡宮の修理造営にも当たった。その頃の宮島は内海の要港で、京や堺の商人とのつながりも深かった。
この寺の秘仏厳島弁財天は弘法大師空海の作と伝えられ、弁財天は現世利益の女神様で、神仏習合の時代は厳島神社の主神・市杵島姫命が理財の女神として崇められるようになり、仏教の弁財天と同一視されていました。神仏分離令によって厳島神社から遷されたこの厳島弁財天をはじめ、宮島に現存する仏像の中で最も古いとされる木造薬師如来像(重要文化財)、千畳閣の本尊だった木造釈迦如来坐像(重要文化財)、その両脇を守っていた阿難尊者像と迦葉尊者像(ともに重要文化財)、五重塔の本尊だった三尊像、多宝塔の本尊だった薬師如来像、護摩堂の本尊だった如意輪観世音菩薩などを収蔵している。
厳島弁財天は江ノ島弁天、竹生島弁天とと共に日本三大弁天とされている。
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仁王門 |
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護摩堂 |
白木の真新しいお堂。明治初頭の神仏分離令で損失した護摩堂を平成18年(2006年)春、 約140年ぶりに再建。大きな不動明王が中央に鎮座しています。 |
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不動明王像 |
釈迦如来座像(重要文化財) |
白檀(びゃくだん)を使ってつくられた高さ約4mの巨大な不動明王像 |
千畳閣の本尊だった木造の仏像。
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「瀟湘八景・尊海渡海日記」屏風
勝海舟・木戸孝允会談の部屋 |
この部屋は、第二次長州戦争の際、勝海舟と長州藩を代表する木戸孝允らが講和会議をした場所
屏風は国の重要美術品に指定されている「瀟湘八景・尊海渡海日記」屏風。天文6年~8年(1537年~39年)、大内義隆の斡旋により、この寺の尊海上人が高麗版大蔵経を輸入するために朝鮮半島へ渡った際の記録で、かの地で求めた高麗の八曲屏風の裏に日記を書いたもの。表の湘瀟八景の墨画も15世紀の朝鮮絵画の基準作例として貴重なもの。 |
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境内の松 |
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大願寺から西の方向、海岸の近くに大元神社があるのでそこを目指して保存地域の古風な民家の立ち並ぶ通りを進む。 |
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歴史民俗博物館 |
江戸時代末から明治時代初めにかけての豪商「江上家」の屋敷や土蔵を利用している。 |
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滝小路 |
御手洗川にかかる筋違い橋をわたってこの道を登っていくと正面に大聖院。この通りには神官の居宅や古い屋敷がある宮島で最も古い町。 |
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大聖院伽藍遠望 |
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誓真釣井(せいしんつるい) |
江戸後期の僧・誓真は、水不足にあえぐ島民のため島内10カ所に井戸を掘ったと伝えられ、4カ所が現存します。誓真は石段を築き石畳の道を整備したり宮島名物となった杓子づくりも島民の生業を作るために発案したという。 |
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参道脇の町並み 誓真釣井の脇のトンネルから表参道方向を見る |
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表参道の商店街 |
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大きなしゃもじ |
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広場には沢山の鹿が集まる。早朝のこのときは係りの方々が鹿の糞の掃除で忙しい。鹿たちがおじさんに餌をねだっている。 |
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松大フェリー |
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JR連絡船 |
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夕方に島に入って翌朝10:00の便で島を出るという、文字通り駆け足の宮島訪問。滞在時間が少なかったため弥山に登ったり、大聖院の仏様にお会いすることが出来なかったのが心残りでしたが、観光客もまだ少ない時間帯にゆっくり厳島神社を拝観できて良い思い出が出来ました。早朝の表参道では可愛い狸にも会いました。又の機会は是非紅葉の時期に訪れたい。 |
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