サグラダファミリア(聖家族贖罪聖堂)
この聖堂は1882年に着工し,途中スペイン内戦による中断をはさんで100年以上建設が続けられている未完の聖堂です。ガウディは31歳のときにビリャールの後をついで2代目の主任建築家に就任し、1914年以降はこの仕事に専念するようになります。1925年、生誕の門(東側)の「ベルナベの塔」の華頂までを完成させ、ドームを含めた聖堂の構想をほぼまとめまし。そしてその翌年の1926年にミサに行く途中テツアン広場の近くで路面電車にはねられ三日後に病院で亡くなりました。73歳でした。その後、内戦による中断や、設計図やガウディが造った模型などの重要な資料が失われてしまいましたが、ガウディの弟子たちが彼の遺志を引き継いで建設が続けられました。その後1976年に受難の門(西側)が完成し、2000年には生誕の門にこの門の最後の15体目の天使が飾られて完成した。これによって2005年ユネスコ世界遺産に登録されています。昨年2007年には聖堂の天井が懸けられ、南側の栄光の門の塔の建設がもう始まっていました。近年、失われた設計情報の復元や、建築上の基準寸法などの解明が進み、また観光収入の目覚しい増加によって建設工事が急ピッチに進むようになっているそうです。
サグラダファミリア贖罪聖堂全景
東側から見た聖堂の全景
4本の塔がガウディ生存中に出来た「生誕の門」です。鐘楼の高いほうは107m。右端の鐘楼は華頂までガウディj自身によって完成している。この塔の向こう側(西側)にこの写真では見えないが「受難の門」がある。そして左側には「栄光の門」とこれらの門の中心にイエスキリストの塔(175m)、これを守るように4人の福音書家(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の4つの塔(150m)。そしてイエスの塔の後ろに聖母マリアの塔が建つ予定。完成時には12使徒を象徴する3つの門の12の塔を含めて合計18本の塔が立つことになる。
生誕の門を見上げると想像していたよりとてつもなく高い。全体が大きな岩山のようです。固い石を刻んで積み上げていった建物とは思えません。大きな生き物がどっしりと腰をすえているような感じを受けます。ごつごつした岩肌にたくさんの彫像が浮き彫りにされているようです。その多くは蔦や棕櫚の木ですが牛や馬、蛇や鳥などの姿もあります。抜けるような冬の青空に金色に輝く華頂が大変美しい!!
生誕の門の塔
聖堂平面図
聖堂の配置基本プランはカソリックの伝統的なラテン十字の構成となっています。
  幅:45m、奥行き95m
この聖堂に適用されている基準数値は 7.5mと17.5mですべてこの整数倍に統一されています。
断面(内部構造図)
中央の2本の塔には84本の鐘が吊り下げられ遠隔制御で演奏することになります。塔に空けられた窓と庇は街中に鐘の音が響いて伝わるように設計されています。受難の門の塔にはパイプオルガンがつけられる予定。栄光の門はよく判らないようだがたぶん打楽器系になるだろうという。ガウディは聖堂全体を大きな楽器として計画していたのです。
塔の中間にはSunctus,Sunctus,Sunctus,・・・という文字が繰り返して刻まれています。「聖なるかな、父と子と精霊」”三位一体”を表しています。そして頭頂部にはHossanna Excelsisという文字が破砕タイルで書かれています。調べてみますと「神よ、天のいと高きところで」という意味だそうです。中央の最上部には糸杉があります。その周りにアラベスタで造った鳩が舞っていて、その下のほうにペリカンの親子の白い像が見えます。ペリカンは聖堂から少し離れたところからしか見えません。
このペリカンは聖トーマスという聖人が残した言い伝えにちなんで母親の子供に対する無限の愛を表す象徴として置かれたといいます
ペリカンは外尾氏の作品

塔の華頂部の中程にある丸い穴はここに照明を設置してバルセロナの街とイエスキリストの塔を照らすためのもの
アントニオ・ガウディ(Antoni Gaudi)
 1852年〜1926年スペインのカタルニア州タラゴナ近郊のレウスの町に生まれ、バルセロナでこの聖堂の建設中に74歳で亡くなった。彼の祖先は仏オーベルニュー地方の商人であったようだが、スペインに移住して代々銅細工師の職についている。母方も同じように4代続く銅細工師の家系だった。ガウディは幼いころから職人に囲まれて育ったことがわかる。そして、父や祖父はタラゴナ平野で収穫される葡萄からアルコールを蒸留するための銅釜を製作していたという。5人兄弟の末っ子であったガウディは建築を目指して21歳でバルセロナの建築高等技術学校(現バルセロナ建築大学)に進む。しかし、彼の家族は父と姉の二人を残して次々と亡くなってしまった。その後、父、姉、叔母、姪の4人がガウディを頼ってバルセロナに出てくると学生でありながら建築家助手のアルバイトをしながら家計を支えていくことになる。若き苦学生ガウディである。アルバイトとして後の第1代聖家族教会主任技師となるビリャール・ロサーノの元で働きシウダデーラ公園の建設にも参加している。26歳で建築学校を卒業し建築士の資格を取得した彼は、パリで開催された万国博に出展する地元の皮手袋店のために展示用のショウケースを作ることになる。そのショウケースがバルセロナの新進気鋭の青年実業家エウセビオ・グエル(父グエルは農民から1代で大富豪になった立志伝中の人物)の目に留まり二人の緊密な交流が始まる。このグエルこそが後にガウディの生涯の友であり大パトロンとなる人物である。
生誕の門
生誕の門はキリストの誕生から青年期までの物語が語られています。門の左から「希望」「慈愛」「信仰」の3つの扉があってその中央の扉の上には聖家族像、聖母マリアの受胎告知、そして聖母マリアの戴冠式などの重要な像があります。
生誕の門正面(慈愛の扉上) 聖家族像(中央の扉の上)
誕生したイエス・キリスト、聖母マリア、養父ヨハネの像
キリストによる聖母マリアの戴冠
イエスの生誕を祝い天使が舞い降りてくる
大天使ガブリエルによるマリアの受胎告知
門を支える柱 
慈悲の扉の入り口を支える柱には棕櫚の葉が 慈悲の扉の中央にある聖家族の像を支える柱にはたくさんの文字が刻まれています。新約聖書に書かれている「アブラハム、イサク、ユダ、・・・」と続く人間の系譜だそうです。
柱をその背中で支える亀
聖堂の屋根に受けた雨水は柱の中のパイプを通ってこの亀の口から排水される。
外尾悦郎氏の作品  
1953年福岡県出身、京都市立芸術大学彫刻科卒業、1978年スペインに渡り、サグラダファミリア建設プロジェクトに雇われて、以来30年、彫刻担当として建設に専念している。リアドロ・アートスピリッツ賞、福岡県文化賞受賞。
以前TV番組で日本人の彫刻家がサグラダファミリアの建設に携わっているということを知りました。今回現地のガイドさんからその人の名が外尾悦郎さんであると聞きました。1978年25歳のときから30年間この聖堂の彫刻を造ってきたのです。下の写真は氏の大きな仕事のひとつで、生誕の門中央にある天使などの15の像。聖家族の像のすぐ上に配置され、キリスト誕生を祝って左右の6人の天使がそれぞれの楽器を演奏し中央には子供たちが歌を歌っています。この15体の天使の最後の像は16年目の2000年に完成し、それによってガウディ自身が建設を始めた生誕の門も完成したのです。門の右上にあるハープを弾いている天使像(右の写真)が外尾さんが最初に作った天使だそうです。下から見上げると大きなハープがあるためか非常に目立ちます。天使の横顔も美しいですが、ハープを爪弾く指や左手の動きが生き生きとしていて、ハープの音が聞こえてくるのではないかと思えるほどです。
キリスト生誕を祝う6人の天使と歌う9人の子供たち ハープを奏でる天使像
ガウディの考え方について外尾氏はその著書の中でこう述べています。「構造やデザインはそれ自身のためではなく、機能と象徴をより豊かにすることにこそ最も価値がある。」

また、ガウディと同時代のカタルーニャを代表する詩人であったジョアン・マラガール「生まれつつある聖堂」という彼の詩の中で聖家族聖堂を次のように表現している。 
生誕の門は建築ではない
イエス降誕の喜びを永遠のもののように謳い上げた詩である
石の塊から生まれでた建築の詩である
未完成の形から
この聖堂に命を懸ける男の情熱が見える
彼は聖堂の完成を自分の目で見る欲を持っていない
建築の維持を後世の人に託す望みだけを持っている
彼がつくっているものは
カタルーニャ自身なのだ
 この詩は外尾氏の著書「ガウディの伝言」(光文社新書)から引用させていただきました。      
見学者は生誕の門の左横の入り口から入り、聖堂の内部、といってもまだ工事中で工事現場を周りから見学する形になっています。受難の門の出口左手には鐘楼への登り口がありました。今回は見学時間に余裕がないので、残念ながら鐘楼の上からバルセロナのパノラマを楽しむことは次の機会に。
受難の門
生誕の門の対極になるキリストの死をテーマにした受難の門は西側にあります。
西側から見た聖堂全景
受難の門
「受難の門」には文字通りキリスト受難の物語が描かれています。

 キリストを売ったユダの話、マグダラのマリア、十字架を背負い刑場に引かれるキリスト、十字架にかけられたキリストと嘆き悲しむ聖母マリアなどキリスト受難の物語です。

顔のない幽霊のような人型で表される受難の門は装飾のない簡素で空虚な壁面の寂しさにより墓場のような印象すらする。

 ガウディのオリジナルデザインは右の絵のものであったといいます。この絵はガウディがなくなったとき上着のポケットから見つかったといわれている。

どのような理由からかはわかりませんが、彫刻家ジョセブ・マリア・スキラッティによって造られた現在の門の姿はこのオリジナル案とはずいぶん印象的に違う感じです。。
聖堂内部
生誕の門の希望の扉から聖堂内部に入るとごらんのようにまさに建築中の現場でした。聖堂の天井まで組み上げられた足場。その下で何人かの彫刻家や石工がそれぞれ石と取り組んでいる姿がありました。

今は聖堂に屋根がかけられているので雨が直接かかることは無いようでしたがいずれにしてもほとんど露天と同じ様な場所です。冬だからといって特に暖房をしているようではなく大変過酷なところでお仕事をされているようでした。

でも、私たちがカメラを向けるとニッコリ笑顔を見せてくれました。
ガウディは設計図を描いていないといわれていましたが、学生時代からの彼の親友であり聖堂建設におけるもっとも重要な協力者であったロレンソ・マタマラに依頼して10分の一模型を制作し、弟子たちには図面を書かせていたそうです。しかし、唯一造られていた聖堂内のロザリオの部屋に保管していたこれらの図面や模型はスペイン内戦の際に無政府主義者の手で部屋の彫像とともに完全に破壊焼却されてしまいました。ガウディは構造研究を記録したり構想を練るために多くの写真をとっていたため、それらの資料や写真から聖堂の構造模型や建築構想が復元されて、その後の建設が行われているということです。
下中央の写真は聖堂の10分の一模型で大屋根を支えている柱の構造が良く解ります。聖堂地下にある博物館に展示されていました。左右の写真は実際に建設中の聖堂内部の柱と天井の様子です。
 
全体を見ると大きな木が寄り集まって林になっているようです。ケヤキの大木を連想させる太くまっすぐな幹から太い枝が分かれて又その先の小さな枝が天井を支えています。この構想を実現するために長い時間をかけて多くの実験を繰り返したそうです。地下の博物館にも展示されていましたがたくさんの錘を紐で吊るして全体的に最も安定する構造を求める実験です。これによって、建物の天井などの加重をすべての柱の中心に導いて横向きの力をなくすことに成功したようです。その結果、壁は屋根や天井の加重を支える役目から開放され自由に作ることができるようになったので、採光のための窓がたくさん作られています。ゴシック様式の大聖堂内部は多くの場合非常に暗くなっています。屋根を支えるために壁を厚く、窓が少ないためですね。ガウディはこの懸垂による構造実験に10年の時を費やしたそうです。やはり天才は並外れた努力家でもあるようです。
大屋根や天井を支える柱の構造
天井にも壁にも大きな採光用の窓が開れています。そこからは陽の光が堂内にくまなく注いでいます。

左:天井部の光の導入口 双曲線でデザインされた光のダクトから効率よく陽の光が取り込まれている
右:天井近くの枝分かれしている柱


 柱は6角形、12角形、24角形と増えて次第に円形になる。2重の螺旋が柱をそれぞれ右回りと左回りでゆっくりと回転している。

 木漏れ日のような陽の光は柱の多角形に刻まれた面に反射して柱の根元のほうに降ってくる。
光が降り注ぐ
日差しの角度の変化にあわせて窓の縁は双曲線のカーブで削り取られています。窓に注ぐ陽光を最大限堂内に取り込む仕組みなんですね。ここにあるステンドグラスは受難の門への出口の手前にあります。ステンドグラスもシンプルできれいです。そしてそれ以上にその光が堂内の柱に反射して周りを彩ります。聖堂が完成するのは何時の事になるか未だ誰にもわかりません。
 でも、一度でもこの聖堂を訪れた人は聖堂が完成してガウディが想い描いた、そのすばらしい光のハーモニーと鐘楼が奏でる音楽に酔いしれたいと思うでしょう。
元聖堂付属小学校
この小さな建物は当初聖堂建設に従事する人々の子弟のために小学校として建てられたものです。実際は1年ほどしか使われなかったようです。屋根の形が特徴的な波型をしています。建設経費を抑える目的から工場で同じ形のブロック化した屋根を作って現地に運んで組み立てたそうです。今で言うプレハブ式ですね。また、屋根を波型にすることで軽くて強い構造を実現した先進的なアイデアを見ることができます。受難の門からの出口の脇に立っていました。
波型の屋根の小さな建物が当時の付属小学校 上から見た屋根の構造
聖堂の地下にある博物館には聖堂の縮小模型が展示されていました。改めてじっくりこれを見ると中の構造がよく判ります。
左:縮小模型 聖堂全体の構造模型
                                                                         
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