アンダルシア都セビーヤ
まだ暗いうちにミハスを発って、アンダルシアの都セビーヤに向かいます。マラガの町から道は北東に向かいそれほど高くはない峠を越えて広大な平野を走ります。夏であればひまわりの花がこの野原を水平線まで埋め尽くすそうですが今は真冬。如何なアンダルシアでも野原は荒涼として何もありません。でも、柔らかい陽射しに春がもうそこまで来ていることが感じられます。セビーヤまでは250km約4時間、到着はお昼を過ぎるそうです。遠いですね。
渡り鳥北へ向かっていました。かなり大きな鳥です。ペリカンではないですよね。
サービスエリアで一休み
ハモン・イベリコjamón ibérico(生ハム)
イベリコ豚はうまい!!肉は一見牛肉のように赤みがかって締まって味が深い。これってほんとに豚肉なの?という感じです。このサービスエリアでイベリコの生ハムが天井から吊り下げられて売っていました。これをスライスして食卓に出すとあのうまい「生ハム」ですね。それで「イベリコ豚」って何なのという疑問を明らかにするために、ウィキペディアのお世話になります。
まずは「イベリコ」ですがこれはそのまま「イベリア半島の」意味だそうです、ということはスペインやポルトガルの豚が皆「イベリコ豚」?となりますが、実は大昔はそうだったようです。というのはイべリヤ半島にもかっては樫などのどんぐりの仲間の照葉樹林が広範囲にあって、そのような森に放し飼いで豚を育てていたそうです。これが「イベリコ豚」です。でも、現在ではこの照葉樹林も長年の伐採とその影響による乾燥化で森林破壊が進んだ結果、スペインではポルトガルとの国境近くの西南部にわずかに(約300万ha)残っているだけになってしまったそうです。だからこのイベリコ豚の生ハムは生産量も少ないし、また時間をかけてじっくりと作るので高いんですね。スローフードの代表みたいな食べ物です。近年イベリコ豚の生産努力が実って250万頭ほどまで回復してきています。
  吊り下がっている肉の形からもわかるように豚のもも肉を塩につけたあと自然乾燥させて長い時間(ハモンでは2年)をかけて熟成させて作るのです。油が乗った後ろ足は「ハモン」と呼ばれて、通常生ハムを「ハモン(jamon)と言っています。でも正確には「バレタ」と呼ぶ前足とは明確に区別しなければいけないことになっているようです。
 
最高級で100%どんぐり林でどんぐりを食べて育った豚を材料にしている生ハムはハモン・イベリコ・デ・ベジョータ(Jamón ibérico de bellota。bellota=どんぐり)」とよばれてほかのものと区別されています。ハモンイベリコはアンダルシアの南西部ウエルバ県ハブーゴ(Jabugo)産が知られています。
ここの売店はマドリッドなどと比べるとずいぶんと安いようですが、値段表を見ると 1kg 50ユーロ(この時期少しユーロが高くて160円超ほどでしたから約¥8,000ですか100gで¥800円ですね。ところで、日本国内で受け取れる予約制のお土産はなんと100g¥5,000.です。これはちょっとボリ過ぎじゃないですか。ネットで買えば本物が安く手に入るようです、特に今(2008.3)ドルが安いので割安ですね。スライスした
jamon ibéricoで100g$25です
ネットショップはこちらでも、購入は自己責任でお願いします。本場のハブコ(jabugo)の会社はこちら。
ハモンイベリコが売店の奥で売っています。一本(というのか知りませんが)152ユーロ,¥23,000位ですね、都会で買うより随分安いようですが、スライスしてある生ハムにはそれなりの付加価値があるようです。何しろ、スライスをする技術はプロとして認められる特別な技でハモンのセールスポイントとしてスライスは手仕事ですといううたい文句があるくらいですから。
修学旅行?!
これからシェラネバダにスキーに行く中学生たち、おしゃれなデザインのバスにカメラを向けると僕たちを写してとばかりにこのポーズ、写したばかりの写真を液晶画面で見て皆で大はしゃぎしていました。大人びた顔をしていますがやはりかわいいです。
エステパの古城
セルビヤの手前100kmほどの場所にある古城。エステパ(Estepa)。エステパは草原を意味するステップのスペイン語ですね。確かに町の周りは一面大草原です。 ここはアンダルシア地方でクリスマスに食べるお菓子のマンテカド(アーモンド,ラードを使った焼き菓子)でも知られている。あのガウディもこのお菓子が好物で、クリスマスには周りの人々にもこのお菓子を振舞ったそうです高速道路の車窓から
岩山の上の古城と裾野を取り巻く白い村(西側から)
広大な草原は放牧場でしょうか
春の種まきの準備が進んでいました
セビーヤ近郊にあった元モスク?の教会
昔の豪族の城跡でしょうか
これらのセビーヤに向かう道中の景色はバスの車窓から撮影したものです
セビーヤ
スペイン広場(セビーヤ)
お昼過ぎにセビリアに到着しました。いつものとおり昼食は2時過ぎになるのでまずは見物です。現地ガイドさんと待ち合わせのためバスはスペイン広場に停車しました。ここは広大なマリア・ルイーサ公園の一角にあります。1929年にセビリアで「イベロ・アメリカ博覧会」が開催されその主パビリオンとして建設された建物だそうです。半円形の大きな広場を囲むように柱廊式の建物が建ち、広場との間には運河が流れています。
広場の左右に高さ80mの高い塔が
イベロ・アメリカ博覧会のパビリオン群  (車窓より)
マリア・ルイーサ公園には博覧会のときに建てたパビリオンがそのまま領事館などの用途で転用し維持されています。個性的なさまざまなデザインの建物が見られて楽しいですね。
サンディエゴ栄光広場のエル・シッドの像(左)  (車窓より)
エル・シッドというとチャールトン・ヘストンとソフィア・ローレン主演の映画「エル・シッド」が頭に浮かびます。カスティーヤ王国の英雄エル・シッドの生涯を吟遊詩人たちが歌い続け”わがシッドの歌”という題名の叙事詩(13世紀初め)として残されたそれはスペイン最古の文学作品だそうです。アラビヤ語で「われらの大殿」という名で呼ばれたロドリーゴ・ディアス・バビルはカスティーヤ最大の豪族の家に生まれ、幼い頃から宮廷でサンチョ王子と共に育ち1065年王子がサンチョ2世として即位するとカスティーヤ軍の総帥に任命されます。しかし、何者かに王が暗殺され弟のアルフォンソ6世が王位を継承すると状況は一変します。名声人気の高いエルシッドを次第に王が疎外するようになってついにはカスティーヤ国外に追放してしまいます。亡命者となったエルシッドはその後もサラゴサ王国に仕えバレンシアなどでも戦い多くの武功を立てます。
ところでここセビーヤとの関係は何かというとまだエル・シッドがカスティーヤの将軍であった頃、アルフォンソ6世の使節としてムーア人のセビーヤ王国を訪れました。歓迎の宴の最中に、セビーヤをグラナダ王国連合軍が攻撃してきたのを知ったエル・シッドは少数の手勢を率いて敵軍に奇襲をかけ、敵将を捕虜にしてしまいます。これに喜んだセビーヤ市民は凱旋したエル・シッドを「シディ・ロドリゴ!」と叫んで迎えたということです。
元タバコ工場(現在はセビーヤ大学)  (車窓から)
マリア・ルイーサ公園に隣接してエル・シッドの像の向こうに大きな2階建ての建物が見えます。ここがビゼーの歌劇「カルメン」で知られる、あのカルメンが働いていたタバコ工場です。今は、セビーヤ大学になっています。
サンテルモ宮殿
グアダルキビル河に架かるサンテルモ橋のたもとにある。修復工事中でした (車窓から)
ヘレス広場
騎馬警官が珍しいですね、大きな噴水の向こうにある建物はアルフォンソ13世ウェスティンホテルこの広場の右手にサンテルモ宮殿があります。 (車窓から)
 セビーヤはたいへん古い歴史を持つ町なんですね。何しろローマのカエサルが前1世紀にイベリア半島を制圧して、この地を〔ヒスパリスHispalis}と命名しローマの自由都市になってから本格的な都市建設が行われたという話なのでそれだけでも2000年の歴史があります。ここの北西に位置する「イタリカ」という名の古代都市跡からは4万人収容の円形劇場や浴場、広場を中心にした公共建築などローマ時代の遺跡が発掘されています。
 西ゴート時代にはここに首都がおかれ、8世紀以降のイスラム時代にここを中心にセビーヤ王国が築かれています。そしてしばらくイスラムの時代が続きますが13世紀になるとキリスト教国のレコンキスタによってついにセビーヤもフェルナンド3世のカスティーヤ王国に奪還されます。その後カスティーヤ王国の後援を得たコロンブスが新大陸を発見すると新大陸との交易の本拠地となったセビーヤの繁栄は頂点に達します。1503年にはセビーヤに「インディアス通商院」が設置され新大陸との貿易を独占することになります。そのころタバコ工場や新大陸向けの貨幣がセビーヤ造幣局で鋳造されました。
 そして16世紀になるとセビーヤはスペイン最大の都市に発展し、文化面でもスペイン黄金世紀の中心になりました。セビーヤ大学、インディアス文書館、コロンブス図書館などが相次いで建設され、世界一周を果たしたマゼランやアメリカ大陸を発見したアメリゴ・ベスプッチなどもセビーヤ港から航海に出ました。
 伊達政宗家臣の支倉常長に率いられた慶長遣欧使節もセビーヤでエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見しました。そして一行はセビーヤの下流15kmほどの場所にあるコリア・デル・リオにしばらく滞在しています。ここには、日本へ帰国せずに残った使節団の関係者らの子孫といわれているハポンJapon姓の人々が数百人いるということです。

 余談ですが伝説ではギリシャ神話に出てくるヘラクレスがこの町を建設したといいますし、さらにはアトランティスの流れを汲むと云われる古代タルテソス王国の首都であったと考えられているそうです。(平凡社の百科事典に出てました)
黄金の塔
グアダルキビル河のほとりでバスを降ります。黄金の塔はご覧のとおりユニークな姿をしていました。塔の先端部分の小さなドームが黄色く彩られているだけですが当初は塔全体が黄色いタイルで覆われていたために陽の光に輝いて黄金のように見えたことからこの名がつけられたと言います。レコンキスタの戦いでフェルナンド3世率いるカスティーヤ軍との激しい攻防戦を行った最重要戦略地点だったといいますが周辺の様子にはその面影は感じられません。その当時、河から遡上してくる敵艦をさえぎるために夜間はこの塔から対岸まで頑丈な鋼鉄製の鎖を張っていました、それでこの鎖の破壊を狙った敵との間で熾烈な戦いがここで繰り広げられたという話です。 闘牛場や黄金の塔の見える河岸を後にセビーヤ旧市街の見物に出発します。
マエストランサ闘牛場 
スペインで2番目の規模、最も伝統のある闘牛場 グアダルキビル河沿いにあります
あのドン・ファン慈善病院
入り口の先に中庭、その奥に病院と付属の教会があるといわれましたがこの入り口を見てもそれほどの歴史的な建物であることとは感じられませんでした
病院の横にはこのパネルが、
あの、色事師ドンファンのモデルが実は意外なことにこの病院の設立者ミゲル・デ・マニャラという人だといいます。彼が付属の教会に飾るためにムリーリョなどに依頼して描いてもらった死と慈悲というテーマの絵を今でもここで見ることが出来るそうです。

http://www.santa-caridad.org/home.htm

左の写真入り口の右に写真パネルがかかっていますね。この方がミゲル・デ・マニャラさんです。
この奥の左手に闘牛場があります コンスティトウシオン大通り
コンスティトウシオン大通りにはこんなかっこいい路面電車
カテドラル
スペイン最大のカテドラル世界でも3番目の規模を誇ります。奥行き170m、幅76m、高さ40m鐘楼のヒダルダの塔は高さ98m
セビーヤが13世紀にカスティーヤ国王フェルナンド3世によって奪還されたのちここにあったモスクを150年の間キリスト教会として使っていたそうですが1366年におきた大地震によってセビーヤは大きな被害を受け大聖堂も破壊されました。そして直ちにモスクの土台の上に大聖堂を建設することになりました。このときに教会参事会は「後世の人々が、この建物を建てた人々は気違いのようだと思うほどの巨大な聖堂を建てよう」と決議したそうです。1401年に着工して完成まで100年以上の年月がかかっています。
おしゃれな新しい車両の路面電車が走る聖堂前の大通りには立派な構えの門がありますが特別なイベントのときに開かれるだけで普段はぐるーと迂回して東側にある観光客用の通用門から入ることになります。
主門 免罪の門  
西側の電車通りに面した堂々とした門ですが、観光客はここからは入れません。大きな儀式の時だけ開扉されます。 北側にある観光客の出口オレンジの中庭が見えます
オレンジの中庭から見上げるヒラルダの塔(左)とカテドラルの正面(右)
オレンジの中庭
オレンジの木が植えられた中庭、観賞用のオレンジの実が艶やかな色で彩を与えてくれます。オレンジの木の上に美しいヒラルダの塔が聳えています。
ヒラルダの塔
元々は12世紀の末にムーア人によってローマ人が築いた土台の上に建てたイスラム教会のミナレットでした。四角いイスラム様式の塔の上に丸い鐘楼が載っています。鐘楼の部分は大聖堂が出来上がった52年後のことだそうです。鐘楼の上に女人像が立っていてこれが風の方向によって回転する風見になっているのでヒラルダ(風見)の塔と呼ばれています。この女人像は高さ4m、重量1.3tという巨大なものです。四角い塔の最上部は展望台になっていて歩いて登ることが出来ます。
カテドラル正面のファザード
中庭中央の噴水
西北の礼拝堂のドーム
大聖堂の内部
王室礼拝堂主祭壇
主礼拝堂
広大な大聖堂のほぼ中央に位置する主礼拝堂の絢爛豪華さは目を見張るものがあります。鍍金だそうですがそれでも眩しいばかりに輝いている内陣の祭壇。レタベル(飾り衝立)にはキリストと聖母マリアの生涯が木彫レリーフで刻まれた45の場面で表されています。一般の礼拝者は格子の前の席でお祈りします。私たちもしばらくお祈りをしながらこの場の空気を味わうことにしました。
聖歌隊席
主礼拝堂内陣と向かい合っている聖歌隊席(格子の中)。格子の内側に入ると左右に大きなパイプオルガンがあります。正面の祭壇の下には礼拝者を囲むように聖歌隊席が並んでいます。豪華な木彫の折りたたみの椅子も必見ものです。祭壇の中央には聖母マリア様が居られました。この聖歌隊の117の座席とパイプオルガンが取り付けられたレタベルはサマランカののフリアール・フランシスコによる仕事だといいます。写真はうまく取れませんでしたが折りたたみ式の座席は美しさと実用性が見事に調和しているすばらしいものです。
主礼拝堂内陣と向き合う形の聖歌隊席、こちらも中央に聖母マリア様の像があります。世界の根本は聖家族であるという意味がこめられているそうです。
豪華な装飾のパイプオルガン
コロンブスの墓
主礼拝堂に交差する方向の南側正面にコロンブスの墓があります。元々コロンブスの墓は亡くなったハバナの大聖堂にあったものを米西戦争でスペインがキューバを失った時に運び出しサンチャゴの地を経由してここに移したと言うことです。棺を担いでいるのはスペインのカスティーヤ、アラゴン、ナバラ、レオンの4つの王国の王。 
コロンブスの棺(墓)
コロンブスの墓の前を交差する側廊、正面はキリスト降誕の扉
同じ側廊の東側方向 左側面の内側が主礼拝堂の内陣
大きなパイプオルガン
数々の美しいステンドグラス窓
写真をクリックすると拡大します
主聖器室
宝物がぎっしり、時代時代の信者や支援者からの寄進物が蓄えられています。その一部だけでも大変な財物を見ることができます。教会の権威を誇示しているようで「だから何なの?」ってひねくれた感じを持つのはやはりひねくれてますかね。
規模の壮大なこと、たくさんの礼拝堂(室)がそれぞれ見事なこと、スペインの全盛期の16世紀、その繁栄の中心地に造られた大聖堂として贅を尽くしたこのカテドラルには圧倒され正直少し疲れました。ヒラルダの塔に登ってセビーヤの街の大パノラマを眺めてやっとその疲れをとることができたようです。
ヒラルダの塔へ
スロープを登ること50周くらいでしょうか20階のビルを登る感じ、スロープになっているのは昔ここをロバや馬で登っていたそうです。確かにスロープの幅もかなり余裕があります。
地元の小学生たちも塔に登るため順番待ち
鐘楼のこの階には24個の鐘があります。この上の階には観光客は上れません。
北西方向のセビーヤの街 目の下にはオレンジの中庭も見えます、左手奥には闘牛場
???
こちらはマエストランサ闘牛場
トリウンフォ(凱旋)広場からのパノララマ映像
昼食へ  やっとお昼ご飯が食べられそう。朝食から7時間以上たつのでさすがに空腹を感じます。お昼のレストランはあのスペイン広場のスペイン館の斜め前、広場とは反対側の弓なりになった建物頂点にあたる場所でした。
この建物の向こう側があの半円形のスペイン広場
レストラン サンマルコ
角地に立つビルの二階にあり窓が広く明るい雰囲気のよいお店でした。食事は何を食べたか忘れました、でもおいしかったと思います。本店は旧市街のアルカサルの近くにある12世紀のアラブ浴場を改装したものでガイドブックの写真では雰囲気のある感じです。
コルドバ
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