ジョセル王の階段ピラミッド(サッカーラ)
ギザから運河沿いにサッカーラ街道を南下する。道沿いには新しい邸宅が立ち並んでいた。カイロで成功した人々が大きな屋敷を郊外に造り、週末だけこちらで過ごすということだ。いずこも格差は確実に広がっていると見える。
家並みが途切れナツメヤシの林が続く、そしてその林も狭くなり左手に丘が迫ってくる。サッカーラに近づいてきた。アブシールからサッカーラ、南ダハシュールまでの10数kmの間に21基のピラミッドが並んでいるという。古代エジプトの主なピラミッド36基のうち約3分の1を占めている。さしずめ日本流に言うと「ピラミッド銀座」ともいう場所だ。
サッカーラ
初期王朝時代に王や貴族が日干し煉瓦をテーブル状に積み上げて造った「マスタバ墳」が沢山ある。そしてピラミッドの第1号ともいうべき「ジェセル王の階段ピラミッド」をはじめ古王国時代のピラミッド群が集中している。いずれもナイル左岸の台地に南北に列をなして建造されている。この時代のナイルは台地のすぐふもとを流れていたという。ウナス王の河岸神殿跡も台地の裾にあった。ナイルが増水した時はここまで水が来ていたのだろうか。
ピラミッドマップ
ジュゼル王のピラミッドコンプレックス
サッカーラ街道を丘に向かって右折するとやがて正面に建物の跡らしいものが見えてきたウナス王のピラミッドコンプレックスを構成する河岸神殿跡だというがバスはゆっくり走ってくれないので写真も残っていない。神殿跡を右折して坂をさらに上ると盛り土のような小山が二つほど見えてくる。どうやらピラミッドが崩れている姿のようだ。左に急カーブして平らな場所に出た階段状のピラミッドが目の前に現れる。巨大なギザのピラミッドを見てきたばかりではいずれも小さく見えるがこれでも60mはあるという。
ジェセル王のピラミッド周辺
テティ王のピラミッド
建設残土が盛られているような何やら悲しい姿のピラミッド。第6王朝
テティ王ピラミッドの地下にあるピラミッドテキスト
サッカーラ近辺のピラミッド配置図
上が南   ピラミッド大百科より
ウセルカフ王のピラミッド
階段ピラミッドの手前間近にある崩れかけたピラミッド 第5王朝
階段ピラミッドの横顔
世界最古の石造建造物  ジェセル王のピラミッド
南東の隅に小さく開いた入口付近
入口付近の石灰岩造りの周壁 高い! 周壁は高さ10m、周囲の長さが1645mという長大なものである。もちろんほとんどが崩壊し入り口付近だけが修復されて見ることができる。凹凸を付けた壁面は倒壊しにくい構造として日干し煉瓦による壁づくりの様式を踏襲したものである。もっともこの構造はメソポタミアの築城技術を継承したのではないかという説がある。
通路の天井は丸太?いや、石で造って丸太に見せているのです。 これは列柱の中間から振り返った入口方向
復元された入口の通廊。列柱は葦を束ねたようなデザイン 天井部も石造なのに木造のように見える。先王時代の木や葦で造られた構造を様式的に受け継いで石で永遠の建物を築こうとしたものと考えられている。
ピラミッドの前庭から列柱廊を振り返る
ジェゼル王の階段ピラミッド
古代エジプトで最初の石造ピラミッド、ということは世界で初めてということか。BC.2650頃、古王国時代第3王朝の2代目ジェセル王のピラミッド。底辺の長さが東西約130m、南北約110m、高さは約60m、6段の階段状になっている。東西277m、南北545mの周壁で囲まれた広場も広い。そのためかさして高いようには見えないが25階建のビルにも相当する高さだろう。古王国時代第3王朝のジェゼル王の宰相であり大神官であったイムヘテブが設計したという。このイムヘテブは建築での天才的な能力だけでなく医術にも通じのちに神格化され神として崇められたほどの人物であったという。吉村作治氏はどこかの本の中で「恐らくはメソポタミヤからの帰化人(あるいはその子孫)で先進知識を身につけていたのではないか・・」とのべている。そういえば、我が国の大仏の造立の統裁者である金光明寺造仏長官、のちに造東大寺司次官となった国中連公麻呂は百済系渡来人の孫で渡来系技術者集団を率いてあの大事業を成し遂げたのだ。イムヘテブの話もあながち荒唐無稽とは言えまい。
 当初、マスタバ墳として造った後、4段の階段ピラミッドに改装し、さらにその上に重ねる形で6段のピラミッドを増築している。
地下宮殿の主要な部分はマスタバ墳の建造時にほぼ出来上がっていた。
階段ピラミッド 南正面
階段ピラミッドの断面図
ジェゼル王の像
彩色石灰岩、サッカーラ出土、H142cm、第3王朝、統治期間 BC2668~2649  
エジプト考古学博物館(カイロ)
今までに発見された古代エジプトの王の等身大の彫像では最も古いもの。セルタブとよばれる小さな密閉された礼拝所に安置されていて外から覗き見ることができる。
 しかし元々は外から見るための覗き穴ではなく、地下にある来世の宮殿から出現した王が覗き穴を通して北天にある星をみることができるように造られている。
サッカーラにあるのはレプリカで本物は博物館。最終日に見た。目にはクリスタルか何かが象嵌されていたようだが今はない。ジェセル王の正式な名前は「ネテルケト」で”神聖な身体を持つもの”の意味。この像の台座にはこの名前が刻まれているという。
階段ピラミッドの内部構造
地上の様子を見る限り到底想像もつかないが地下にはこの様に複雑な構造物が造られているとは驚く。王は死後の世界で生きていくために必要とされるすべてのものを地下宮殿として建造したとされる。
南から見た階段ピラミッドと内部構造
赤い印の石は埋葬室の入口をふさぐ栓の役目をした巨岩で直径1m高さ1.65m重さ3.5t
「ピラミッド大百科」(東洋書林)より
地下構造の透視図
ジェセル王のピラミッドの地下に造られた複合構造体は最も複雑なもののひとつ。墓盗人の掘った通路はこのほかにもたくさんある。
「ピラミッド大百科」(東洋書林)より
地下構造
東の周壁に沿って「王の小館」その向こう側に「セド祭の中庭」
西奥の祠堂横の周壁
南の墓
「南の墓」南の周壁の内側に大きな竪抗、この中に墓がある
上の竪抗の下の墓から出土した異国の捕虜の彫像、彫像の台座の一部か?
南の墓にある「青色タイルの部屋」にある偽扉に描かれたジェセル王。手に上下エジプトの権利証書を持ちセド祭の走行儀式を行っている姿。この様な石碑はここに3つ。そして階段ピラミッドの地下にも3つある
陶磁器メーカのinaxがこのタイルを再現しています。http://inaxreport.info/no175/serial2.html
「ピラミッド大百科」(東洋書林)より
南の墓の複雑な構造の墓室
南の墓は王の”カア”のためにつくられたとも考えられており、彫像を埋葬する方法でそれを行った。盗掘の被害が比較的少なく、調査によるとピラミッドの地下宮殿より先に建造され大変丁寧な作りになっているという。
「ピラミッド大百科」(東洋書林)より
南周壁からの眺め
入口の列柱廊
台地東側はナイルの緑地帯ナツメヤシの林の先にはサッカーラとメンフィスの集落
西側の地下倉庫があるという丘の上から東を見る 右下の小屋のようなものは祠堂跡
ウナス王のピラミッド
南西の角に接するようにある今あるピラミッドとしては最小、中には有名なピラミッドテキストがあるが現在は入れない。第5王朝最後の王
ピラミッドテキスト
ウナス王の神殿施設跡
周壁の南側にはお隣のウナス王の葬祭殿などの神殿施設があるこの辺りが現在発掘調査中で縄張りがされていた。
はるか北にはギザの大ピラミッドが
北方向のピラミッド群、恐らくはアブシールのネフェルイルカラー王(左)、ニウセルラー王(中)、サフラー王(右)のものとみられる 第4王朝
南にも沢山のピラミッド 左手の近くに見えるのは方角からペピ1世のものか?  第6王朝
ジェセル王のピラミッドに続いて作られた屈折ピラミッド(左奥)と赤のピラミッド(右)が見える (ダハシュール)
ダハシュール
ダハシュールにある二つの有名なピラミッドはいずれもスネフェル王が建造したとされている。スネフェル王は他に父のためのメイドームの崩れピラミッドを造り、そしてサイラとアブ・ロアシュでもこの王のピラミッドが見つかり、都合5つのピラミッドを造ったことになる。一人の王のためにお墓を4つも造るのは多すぎるのではないだろうか?屈折ピラミッドまでは失敗作だとしても多すぎる。吉村作治氏がピラミッド王墓説に疑問を呈する理由でもある。
屈折ピラミッド
BC.2600頃、スネフェル王が建てた4基のピラミッドのうち初期のもの。先王が造っていたメイドームの「崩れピラミッド」を父の死で受け継いで建造したが、良い結果が得られなかった。並行して建造していたこのピラミッドは角の一つが砂礫を含む地盤に乗っていたためその上のブロックが沈み込んで玄室の壁に亀裂が入るという致命的な問題が生じた。玄室の崩壊を防ぐため、長さ15mの巨大な2本の丸太を使って壁と壁の間につっかえ棒にしている。ピラミッド全体の倒壊を防ぐために計画の変更を余儀なくされ角度を緩やかにしてこの様な姿になったと考えられている。そして、結局このピラミッドを放棄することになって、「赤いピラミッド」はその経験を踏まえて初めから屈折ピラミッドの上部と同じ緩やかな角度(43度22分)で建造した。
失敗ピラミッドといわれるが、それでもピラミッドの内部に造った玄室は「持ち送り構造」を採用して巨大な圧力に抗して16.5mという高さの空間を作り出した。しかも入口通路から玄室まで二組造っている。そして、玄室入り口の「落とし戸」の構造など
はクフ王のピラミッドに確実に引き継がれている。
底辺の長さ:188m、高さ105m、傾斜角(下部)54度28分、(49mの高さから)43度22分
ピラミッドの角が崩れているが良質な石灰石を他の建造物に転用するために略奪された跡。単なる盗人だけでなく後世の権力者たちによる仕業でもある。
屈折ピラミッドの内部構造
「ピラミッド大百科」東洋書林より
メイドームのピラミッド(参考)
サッカーラから南に約80km離れたメイドームにある「崩れピラミッド」。BC.2600年頃、先代王フニから引き継いでスネフェル王が建造したが、何らかの理由で放棄され、後に外装石の略奪によって核だけが残されたのではないかといわれる。急角度のため崩れたという説は周りの堆積物を調べてもピラミッドに使われていた石の残骸が見つからないことから今ではかなり根拠が弱くなっている。いずれにしても階段ピラミッドから真正ピラミッドに移行した最初のピラミッドであったということと、また玄室を地下ではなくピラミッド内部に造った初めてのものとして革新的であった。玄室が巨大な重量に耐えるように壁をいわゆる「持ち送り構造」にした初めての例でこの後の屈折ピラミッドからクフ王のピラミッドへの技術の基礎を造った意味は大きい。
また、このピラミッドの主をスネフェル王とする根拠になった落書きが見つかっている。ピラミッドの建造から1000年ほどのちの第18王朝のころ、書記アアケペルカラー・セネブがここを訪れた記念にピラミッドのそばにある礼拝堂の壁に黒いインクで自らの名とスネフェル王の王名が入った落書きを残している。
1辺の長さ147m、元の高さ60m
「ピラミッド大百科」東洋書林より
北のピラミッド=赤いピラミッド
BC.2600年頃、スネフェル王が屈折ピラミッドに続いて造ったもの。屈折ピラミッドでの失敗を生かして石材を斜め積みではなく平行に積む方法がとられた。真正ピラミッドとして初めて成功した美しい姿のピラミッドだ。表面の化粧石はすべて盗まれて、中の赤みを帯びた石灰岩が露出している。長い間恰好な石材の採石場として利用されてきたそうだ。こうして短い間に3つのピラミッドを完成させさらに二つのピラミッドを他の場所に造っていたことが最近分かってきた。クフ王の父はやはり偉大であったのだ。
1辺の長さ219m、元の高さ105m
広角レンズでの撮影のため扁平に映っているがギザのピラミッドより緩い傾斜だ。砂粒を落として積み上がる程度という。
赤いピラミッドの入口付近
アメンエムハト3世の「黒いピラミッド」
BC1800年頃、中王国時代第12王朝のアメンエムハト3世が20歳の頃から建設を始めた泥レンガで造られたもの。赤のピラミッドの近くに見える黒いピラミッド。形が崩れてしまっているが、地下の構造はジェセル王以来の多くの墓室を持つ複雑な作りになっているそうだ。良質な石灰岩の外装を奪われて核として使われた泥レンガが露出している状態であるという。
底辺の長さ:105m、高さ:75m(推定)、傾斜角:57度15分
ダハシュールの「赤いピラミッド」から
「迷宮伝説」:アメンエムハト3世はファイユームの入口、ハワラにもう一つのピラミッドを建造している。ピラミッドに付属して建てられた葬祭殿は、1,500もの部屋と12庭があったといわれ、「迷宮伝説」のそれである。
アメンエムハト3世は父センウスレト3世から「ファイユームの灌漑事業」という大事業を引き継いだ。そして46年という長い治世の間これにに力を注ぎナイル川と砂漠の中にあるカルーン湖を結ぶ運河を完成させた。その一帯を緑あふれる農耕地帯に変える大仕事をしている。その他にもシナイ半島の銅の産出量を格段に増やしたり、アスワンの第一急端付近に運河を整備したり大規模な土木事業も行って中王国の黄金時代を築いたという。国中で多くの石材を必要としていたので自らのピラミッドは日干しレンガで賄ったということのようだ。新王国時代には神格化され崇められた。
現在の運河とファイユーム
ユーセフ運河 ファイユーム地方の農村
ファイユームはカイロの西約100kmのリビア砂漠にあるオアシス。海抜45mのカルーン湖はユーセフ運河でナイルと結ばれている。運河はナイルから400kmの長い距離を砂漠を貫いて水を運んでいる。およそ3850年も昔、古代エジプトの王アメンエムハト3世が成し遂げた事業である。
写真はこちらから http://www.yugakusha.net/study/yoshimura_egypt/200509/200509-3.html
メンフィス近くの運河
ダハシュールから運河沿いに北に戻る、古王国時代の都であったメンフィスに向かう。運河沿いにはナツメヤシの林が続く。
ナツメヤシの林
運河で魚とり、3人がかりでは大変ですな。
古王国の都 メンフィス
BC3000年頃メネス王によって古代エジプトに最初の統一王朝が生まれて初めての都となったところ。そして古王国時代の末期には国がばらばらになって再統一が実現したBC2040年頃、都はテーベに移った。この間ほぼ1000年の間古代エジプトの都であった。今は大きめの村、小さめの町というところか。恐らく都ではなくなった後も集落が続いていたのだろう。カイロ市の南方27kmのナイル川西岸にある。サッカラの村はすぐ隣。だから階段ピラミッドからはすぐそば。町はずれに小さな遺跡公園があった。目玉はアラバスター製の小さなスフインクスと、これまた巨大なラムセス2世の像。倒れたまま寝そべっているそうだ。
ラムセス2世像
ラムセス2世像 誰でしたっけ
アラバスター製のスフインクス
大きくはないがそれでも高さは3mほどか 公園の中央にラムセス2世の立像をにらみながら鎮座していた。
諸々展示してある、悲しいかな有難味が判らない
色々展示物
スフインクスのバック
ヒヒの姿のトト神
ラムセス2世の巨像
小さな建物中に横たわったラムセス2世の巨像があった。見るのにも苦労するし、広角カメラでも画面に入りきらない。3,000年たっても周りに面倒をかけるなんて。なんでこんなところまであなたなの!というくらい目立つひと。少々食傷気味です。
メンフィス村のメインストリートにはお店が立ち並んでいる、食料品店が多いようだ、かって私が暮らした都会の下町の商店街のようだ。しかし辺りには土埃が舞っている。お肉屋さんの前を通ると肉の塊が店の一番前に置かれている。しかもむき出しのままだ。その前を我々のバスが埃を巻き上げて走るわけだから商品も埃まみれ。すかさず現地ガイド氏のコメントが入る。商品が新鮮であることを誇示するために見やすい場所に展示しているのだとのこと。土地の人は埃を気にしない。全く雨の降らない土地柄だから埃を嫌っていたら生活ができない。「日本とは随分違うでしょう!」と先手を打たれた。確かに。ひとはその地に根ざして生きている限りそれぞれの価値観を持っているわけだ。海外に出たら、あるがままをまず受け入れて自分の価値観だけでものごとを評価したり判断してはならないということか?・・・・・
喧噪の大都会カイロへ
ギザを経由してカイロの都心に向かう。ギザもカイロの大都市圏に飲み込まれ何処からがカイロか区別がつかないが辛くもナイルの川筋を見てそれとわかる。
ギザからカイロに向かう高架道路の混雑ぶり
ナイル川を渡りカイロの中心街に
世界一の大河ナイル川はカイロに来ても川幅はさほど広くない。むしろ想像していたよりずっとせまい。川の水は遠目で見る限り汚れた感じはないが「ビルハルツ住血吸虫症」の発生源であることから、川に手足を浸したり、川で泳いではいけないそうだ。皮膚から入るというから気持ち悪い。中近東からアフリカにかけて淡水中に多くいる虫だというから気をつけなくては・・・
カイロのラッシュアワーは早い?
何処の都会も朝夕は混むがカイロは午後の3時過ぎに仕事を終えて帰宅したり次の仕事に向かうひと(二つの仕事をこなす)で道路は結構混むそうだ。官庁や銀行などは2時から2時半で勤務終了だから、もう一つの仕事を持っているのが普通だという。
ちなみに勤務時間をHPで調べてみた。((財)中東協力センター(JCCME))
● 官  庁 8:30 ~ 14:30
 (大半の官庁の週休日は金曜日、土曜日)
●銀  行 8:30 ~ 14:00(週休日は金曜日、土曜日)
●会  社 9:00 ~ 12:30、13:30 ~ 17:00
 (週休日は金曜日、土曜日)
●商  店  9:00 ~ 22:00(14:00 ~ 17:00 の間、閉店するところもある。週休日はほとんどが日曜日。24 時間営業や年中無休のスーパーマーケットもある)
ラマダン月(断食月)の1カ月間はこれらの時間帯は多少変更され、官庁をはじめ民間会社などでは勤務時間は1時間半から2時間ほど短縮される
命がけ?の道路横断
朝のラッシュ時にも見たがこの混雑の中を人々は横断歩道もない場所を横断していく。人も車も停止することはない。人々は買い物かごや荷物片手に車の間を縫うように歩く。決して走らない。カイロでの生活に慣れていない外国人は横断中に足がすくんで立ち止まったり急に走りだしたりということで事故に遭うことが多いという。ガイドさんは旅行中、道路は絶対渡らないようにと口うるさく言っていたのを思い出す。それにしても軽業師みたいにすいすいと軽い身のこなしで道を渡る姿には驚きあきれる。
カイロの中心ダフリール広場の周辺
エジプトの高等教育
広場を囲むように大学や博物館合同庁舎などが立ち並んでいる。そんな中に「カイロ・アメリカン大学」という外国名を冠した大学を見た。少し興味を持って調べてみたところ、外国の名前を冠した大学は他にもエジプト・ブリティッシュ大学、ドイツ大学などがある。そもそも、エジプトにはカイロ大学やアレクサンドリア大学などの国立大学が19校、アメリカン大学などの私立が18校と数は多くない。しかし、学生数が非常に多い。例えば、国立カイロ大学の学生数は約26万人国立アレクサンドリア大学は18万人。日本で「マンモス大学」といわれる学校でも学生数は5万人前後だから大変な人数だ。その理由は現在エジプトでは若い人の人口が非常に多く35歳以下が人口の6割以上を占めている。そのため、高等教育機関も多くの学生を受け入れることになる。しかしその結果、教員一人当たりが受け持つ学生の数が多くなり卒業生の質が低下しているという。そこで、エジプトに少数精鋭教育の大学をつくり、質の高い人材を育て、国立大学や研究所、産業界などに働く機会を提供しようという取り組みが始まった。その新しい教育の仕組みづくりを外国の協力を得て行おうということで日本に白羽の矢が立ったという。そしてこの2010年2月に日本の名前を冠した「エジプト日本科学技術大学(Egypt-Japan University of Science and Technology; E-JUST)」がアレクサンドリア近郊の新興都市、ニュー・ボルグ・エル・アラブ市に設立され世界レベルの大学を目指して、日本式の少人数制による工学系教育が始められた。(初めは大学院の修士・博士課程での部分開校)エジプトでは日本円が使えないということで関係がそんなに薄いのかと少々気落ちしていたのだが教育面でこのような協力関係が構築されてしっかりと動き出しているのを知って本当にうれしく思っている。そういえばNHKドラマ「おしん」はエジプトで大変な人気が出たということをガイド氏から聞かされたが、自動車やハイテク製品だけでなく”おしん人気”も日本への親近感が増した大きな理由になっているのだろう。
カイロ・アメリカン大学
エジプト地理学会
ピザハットやバーガーショップが一等地を占める
マックやコーラの大看板が
ホテルについてしばしの休息、夕食は船の上でダンスショーを見ながら食事。その前に部屋でシャワーを浴びたい。昨日は寝台列車でゆっくりできなかった分くつろぎたいが・・・それにしても、リビング専用とベッドルームの二部屋の豪勢な部屋だがひとり使いではもてあます。
旅行初日にこのホテルに電池と充電器を忘れてしまったのでフロントにとりに行く。ガイド氏からの連絡でキープしておいて貰っていた。一安心。一流ホテルだから当然のこととはいえ、ニューヨークの一流ホテルでしばしばいやな経験をしたことに比べるとカイロのホテルはしっかりしている。
暮れなずむナイル川
夕暮のダフリール広場
「エジプト考古学博物館」
ホテルの下にもモスクが
遊覧船でダンスショー
ダンサーのすぐそばにはヨーロッパ人のグループが画面奥には東南アジア系の人たち、あとは我々日本人が数グループと韓国人、ダンスは終始乗りが大変悪かった。大体がベリーダンスにどうやって乗れっていうのかな。おしまいに兄さんたちが何人か出てきてまとめていたが・・・男性の回転ダンスあれはトルコ辺りのダンスかな。シルクロードを伝わって中国でも回転ダンスが披露されたことがあったと聞くが・・・この回転ダンスには感心した、相当重量のありそうなスカートを回転させながら変幻自在に操って見せる。力のある男性ならではの技だ。ベリーダンスが少々お粗末でもこの回転ダンスで目が覚めた。結構でした!!
 食事の方はイタリアン系のバイキングスタイル。びっくりしたのはギザで昼食をとったレストランの主人風の髭爺さんが又出てきて仕切っていた。またお会いしましたねと軽くごあいさつ。レストランのオヤジも掛け持ちで夜昼仕事をするなんて頑張ってますな。
おへそを隠して再登場、このほうが素敵ですね
タンヌーラという旋舞(回転ダンス)
元はスーフイズムとよばれるイスラム神秘主義の修行の一つだそうだ。休む間もなく高速で回転し、スカートの中から止まることなく小道具を出して様々な形を作って見せてくれた。全身ばねという感じの鍛え上げられた身体はやはりプロのものだ。脱帽!!
ほんとに疲れましたわ、まだあと一日残っている。朝スーツケースを出さなければいけないので荷物の整理をしておかないと!
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