コルドバ
セビーヤを午後4時に発ち高速A4号線を東に向かう、コルドバまでは140kmほど、到着は夕方になりそうです。
道の両側はなだらかな起伏の平原が続きます。冬の最中の1月下旬ですがもう種まき前の準備ができているようです。雑草がきれいに耕されていました。この平原は真夏には強烈な陽ざしの下40度cを越える灼熱地獄になるそうです。その真夏には黄色いひまわりの花が地平線まで埋め尽くすということですが、それを聞いても真夏には来たくないですね。

 ところで、高速道路を走っていて気がついたことがあります。日本では道路わきに企業の広告の看板がたくさん立っていますがそれがまったくといってありません。調べてみましたらスペインでは法律で道路から100m以内の場所に看板の設置が禁じられているそうです。それで、高速道路からの眺望もすっきりしていたんですね。でも、あの黒い牛の看板だけは所々で見かけました。例外的に認められているんでしょうか。あの牛の看板は直接牛とは関係ない洋酒メーカーのオズボーン(Osborn)社(スペインではオズボルネ)のマークでセビーヤの南にあるへレス(jerez)で造られるシェリー酒(3年以上熟成させた40度という強いワインもある)で日本でもよく知られています
セビーヤからコルドバへの道沿いにはこんな感じの風景が続きます
『塔の町』エシハecija『アンダルシアのフライパン』
セビーヤから100km程いくと平原の少し窪んだ地形のところにこの町があります。ここにはこのような塔が11もあります、高速道路からも見渡す限り塔が林立している感じです。もちろん幾つあるか数えたわけではないのですがあまりの多さにガイドブックで確かめると別名『塔の町』とも呼ばれているんですね。また、夏はもうひとつの別名『アンダルシアのフライパン』と呼ばれるほどの暑さで、過去に52度Cを記録しています。こんな場所ですがギリシャ時代の昔から交易都市として栄えていたということです。グアダルキビル河の支流のヘニール川をたどると大型船がここまで遡上できることから自然に交易拠点になったのです。ローマ時代にはグラナダやマラガを含むアンダルシアの都市の裁判をこの街の裁判所で行っていました。1755年ポルトガルのリスボンを中心に起きた大地震でここエシハの町も大きな被害が出ましたが経済力があった街はこの機に再開発を行い11の塔も再建しています。
平原の中にぽつんとあった農家、でも改めて写真を見るとかなり大きな農家ですね。
 コルドバ
セビーヤの150km上流、同じグアダルキビル河が町の中心を流れています。ここコルドバも古い町でカルタゴがイベリア半島に進出する以前からイベリコの重要な都市であったといいます。紀元前152年に共和制ローマがカルタゴからイベリア半島の覇権を奪い取った後ここコルドバがローマの属領ヒスパニア・ウルテリオルの首都として栄えました。その後帝政ローマ時代にヒスパリス(セビーヤ)とその近くのイタリカが交互にバエティカ準州の首都機能を果たすようになります。再びコルドバが繁栄するのは8世紀初頭にウマイヤ朝のイスラム軍がイベリア半島全域を制圧しウマイヤ朝の支配下に入ってからとなります。 @ラ・カラオーラの塔
Aローマ橋
B大水車
Cメスキータ
D国際会議場/観光案内所
E司教館 /エピスコパル宮殿
Fアルカサル
Gアルメディーナの城壁
L花の小径
やっと到着したようです、あれがローマ橋?!
ローマ橋
グアダルキビル河(アラビア語で偉大なる河を意味する)に架けられたローマ時代の橋。雨量の多い季節には大変水量が多くなるので橋脚を流線型にして強化している。橋脚部分を含めて補修以外ほとんど変更されていないといいます。向こう岸の橋の袂には修理中の「カラオーラの塔」がある。この塔は橋を守るための砦の役割を持っていました。
アルボラフィア(Albolafia)の大水車
イスラム時代の水車を復元したもの、グアダルキビル川の水をくみ上げてアルカサルの宮殿に給水するための施設でムーア人の利水技術の高さを示しているといいます。
ムーア人が建造し12世紀ころに使用していた水車(復元)
凱旋門 プエンテ(橋)門
この同じ場所にはローマ時代に「ローマ門」ムーア時代には「イスラムの門」があった、そして今の門は16世紀にフェリペ2世の命で建設されている。
サン・ラファエルの勝利の像
18世紀のフランス人彫刻家ミゲール・ベデルディギエルの作品。
メスキータ (東南側の壁)
元司教館エピスコパル宮殿
イスラム王朝時代のカリフ(王)の宮殿跡に建てられた司教館であった。今は司教博物館になっている。
サン・セバスチャン病院(手前) 観光案内所とお土産屋がはいっています
観光案内所前右側はメスキータ
 メスキータ mezquita
コルドバはメスキータ、スペインはメスキータ、特徴的な橙色と白のアーチの映像に鮮烈なインパクトを受けます。イスラム建築の真髄が残された美しい建築物をこの目で見ることがこのたびのもうひとつの楽しみでした。
メスキータ建設の経緯
イスラム勢力がイベリア半島を制圧した後、785年に聖ビセンテ教会を取り壊してその場所にメスキータ(モスク)の建設に着手している。カリフはアッパース朝に対抗してダマスカスのモスクをしのぐ華麗で大規模な建物をめざした。アブド・アッラフマーン1世から5代にわたるカリフによって規模を拡大していった。
 右の図はメスキータの配置図(下の方角が北北西)です

1期の工事では礼拝前のお浄めを行う中庭(今はオレンジの庭になっている場所)を含めて図の黄色の部分Hを建設しました。このとき聖ビセンテの部材を多く使用しているといます。
2期工事では中庭と礼拝堂の橙色Iの部分の拡張に加えて現在鐘楼になっているを建設しました。

3期工事でダマスカスのモスクをしのぐ壮麗な建物になります。当時のローマ帝国皇帝に派遣されたビザンチンの職人たちによって行われ、また皇帝からミフラブを飾る美しいモザイクタイルが贈られています。図のJ濃い橙の部分の建設。
イスラム時代の最後の4期目の工事は図の左側の赤い部分とその下の中庭部分を拡張しました。このとき8つの側廊
増築され合計で19となっています。規模としては現在残る180mx180mのメスキータがこのとき完成しています。


レコンキスタ以後キリスト教大聖堂をこのメスキータに造ることについては地元市議会の強い反対があったようですが教会関係者の働きかけによってカルロス5世の承認がおりて行われた。
メスキータの中心に大聖堂を建造するにあたって建設責任者のエルナンルイスはメスキータを台無しにしないために力を注いだといいます。それは、実際にここを訪れてよくわかりました。

メスキータの配置図
メスキータの外壁
メスキータの門繊細なアラベスク模様が美しい
メスキータの門
門の紋章
観光案内所前の郵便ポスト  黄色いポストは日本にはなく珍しいので写しました。
アルミナールの塔
モスクのミナレットを覆うように造られた鐘楼、高さ60m、完成は1593年塔の頂上にはコルドバの守護天使聖ラファエルの像が立っている。
オレンジの中庭アルミナールの塔
イスラムのモスクの頃はサーンと呼ばれた「体を清めるための中庭」と礼拝堂との間に壁はなく、両者が一体となって信者の祈りの場として使われていた。15世紀にキリスト教会として改修するために壁を塞いで中庭と礼拝堂を扉で別け庭にはオレンジの木が植えられた。 またこのとき写真中央に見えるアルミナールの塔をウマイヤ朝カリフのアブド・アッラフマーン3世のときに建てられたミナレットを元に鐘楼として改築している。
棕櫚の門
メスキータの内部
棕櫚の入り口の正面奥が最も重要なミーラブ  クリックすると拡大します
右上の小窓
 ミーラブ
モスクの中で最も重要な場所、聖地メッカの方角の壁にくぼみが造られ信者は此処で祈りをささげます。アラベスク模様で装飾されたミーラブの美しさに言葉もありません。 クリックすると拡大します
ミーラブの天井ドーム
大理石の一枚岩でできているそうです。帆立貝の形をしたドームには幾何学模様とコーランの文言が刻まれている。
 サンタテレサ礼拝堂  参事会会議室
ミーラブの左隣に位置するこの部屋も大変豪華です。壁面は見事な幾何学模様で装飾されています。
サンタテレサ礼拝堂(参事会会議室)の天井ドーム
 中央礼拝堂
モスクの中に大聖堂をという願いはカール5世に許可されてか250年の年月をかけてエルナン・ルイスの3世代とディエゴ・デ・ブラベス、ファン・デ・オチョアらによって達成された。しかしこのために美しい多くの円柱が取り払われてしまった。フェルナンド4世アルフォンソ9世の墓所ともなっている中央礼拝堂をはじめとして50の礼拝堂が造られている。長い年月の間に建築様式も変遷し後期ルネッサンス様式から始まってスペイン・プラテレスク様式チュリゲーラ(スペインバロック)様式まで多彩な建築様式が取り入れられている。中央礼拝堂と聖歌隊席はメスキータの中心に位置しており、1563年から36年間かけて造られた。セビーヤ大聖堂の聖歌隊席の椅子も見事でしたがこちらの方もすばらしいものです。ドウケ・コルネホという彫刻家の作品だそうです。
                 礼拝堂聖歌隊席  写真をクリックすると拡大されます
聖歌隊堂と主祭壇の間のメインホールの天井ドーム
中央祭壇上のドーム
天井から床まで祭壇画が壁いっぱいにかけられています。フェルナンド4世アルフォンソ9世の二人の王の棺は赤色大理石で作られています。
 円柱列
柱の一本一本をよく見ると長さや太さ、素材も少しずつ違います。ムーア人がメスキータを建設するとき古い建物の柱を集めて流用したためだそうです。長さの異なるものは中東部の長さで調節しています。
正面がミーラブ
天井に使われている用材もシリアなどから献上されたもの
サグラリオ教区教会
南東の一角にある礼拝室、かなり広いスペースで日常的な礼拝はここで行われています。
サグラリオ礼拝室の周辺の列柱は解体修復しているのできれいです。
この天井はキリスト教会として改修後のもののようです。
天井(木製)に刻まれた美しい連続模様
 宝物堂
サンタテレサ礼拝堂(参事会会議室)の左手を入ると大聖堂の礼拝や司教が使う宝物が展示されている、最初の部屋の中央には聖体の顕示台(エンリケ・デ・アルフェの作)が置かれています。今もキリスト教の祭日に聖体が街を巡る時に使われているそうです。
宝物堂第1室の天井ドーム
大司教が儀式で使う杖 この部分はコロンブスが新大陸から持ち帰った金をイサベル女王が教会に寄贈して制作させたといいます。
 ユダヤ人街 juderia
メスキータの北の旧市街の一角にはフーデリアと呼ばれる旧ユダヤ人街があります。狭い道が曲がりくねってまるで迷路のよう、両側の家々の真っ白な壁には冬でも真っ赤なゼラニウムの花が飾られています。鉄格子で閉ざされていますがきれいに手入れをされたパティオ(中庭)が路地から見えます。見た目はまったく違いますが東京の谷中や佃の下町の開放的な雰囲気と共通した親しみやすさがあります。
路地の一つ一つがそれぞれの表情を見せてくれます
このような狭い路地も電線や電柱がないので(地下に埋設しているようです)すっきりして空間が明るいですね。先進国を自他共に認じている日本の町はどうなっているんでしょうか??
お店の看板もおしゃれ
 花の小径
コルドバのこの場所は大変有名ですが冬の今は花も少なくちょっとさびしい感じでした。しかし、住人が心をこめて花を育てている思いはなんとなく感じます。TVのルポ番組などで見たコルドバの花好きのおばさんたちの顔が思い浮かんできます。  
小径の間にはメスキータのアルミナールの塔
 パティオ
コルドバのこの地区を中心に5月にはパティオコンテストが開かれて日ごろ丹精したご自慢の中庭をお披露目します。その時期には誰でもパティオに入ることができるそうです。鉄製の扉のデザインがお家ごとにそれぞれの個性を出している。
このおうちは通り抜けさせてくれます。パティオを見ながら、通路を進むと皮細工のお店に繋がっていて向こう側の小径に出られました。どうやら「花の小路」に通じる抜け道になっていたようです。
夕暮れが近いそろそろホテルへ
夕日を浴びる勝利の塔
アルカサル
アルメディーナの城壁 (ユダヤ人街の西側)
夕日に赤く染まるホテル・ヒスペリア・コルドバ
コルドバの新市街の一角
お泊りはオキシデンタルホテル
コルドバの町の中心からさほど離れていない高級住宅街の中にありました。周囲は大きな豪邸ばかりです。ホテルも比較的新しいリゾートホテル風の気持ちのよいホテルでした。
 ちょっとした事件はスペインのホテルでは毎日ありますが、ここのホテルでは朝食時にレストランの照明がつかずに30分ほど待たされたというハプニングがありました。スペインの冬の朝は日が昇るのが遅く7時半は真っ暗です。そういうことがありましたがまた機会があれば泊まってももいいなと思います。
ホテルのロビー
早朝のメスキータ
中央はメスキータの鐘楼 朝もやの中で煙っています
ローマ橋
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